2008年1月 4日 (金)

フェルナン・クノップフ

「もしオーブリー(ビアズリー)が描くなら傑作になるだろう。彼が描かないなら、若いベルギー人のだれかに頼もう ー たとえばクノップフだ。私は一風変わったものが欲しい ー 例えば手に手を取って歩む"死"と"罪"の、非常に厳格で中世風のデザインなど・・・」
オスカー・ワイルドは知人に宛てた手紙の中でこのように書いている。

フェルナン・クノップフは1858年9月12日にベルギーのグレンベルゲン=レ=テルモンドで裁判所判事の子として生まれた。
幼少期はブリュージュで過ごし、法律を学ぶためにブリュッセルの大学に入学したが、学業を放棄してブリュッセル・アカデミーにてグザヴィエ・メルリに師事した。
1877年にはパリを訪れてドラクロワの作品に強い感銘を受けると同時に、ギュスターヴ・モローの絵に接し、1879年にはモローのもとに学んでいる。
また、イギリスのロセッティやバーン・ジョーンズらラファエル前派の作品もパリの万国博覧会で知り、世紀末の象徴派やデカダン派の文学にも強い関心を持つようになった。

クノップフの作品はしばしば文学との直接の関連を持っている。
彼が最初に心酔したのはジョルジュ・ローデンバックであり、このベルギーの詩人に感化された『シューマンに聴き入る』はクノップフの初期の主要な作品である。
また、カトリック薔薇十字会の指導者であり創始者であるジョセファン・ペラダンの小説からはいくつかの肖像画と『スフィンクス』などの作品が生まれている。
クノップフ自身もペラダンの思想に共鳴する部分が多かったと思われ、彼が主催する薔薇十字展には毎回のように作品を出品している。
前述のラファエル前派との交流も行われるようになり、代表作のひとつである『私は私自身に扉の鍵をかける』はダンテ・ガブリエル・ロセッティの妹であるクリスティナの書いた詩に由来するものである。

クノップフは1890年にロンドンのハノーヴァー・ギャラリーで初の個展を開いた後もイギリスとは緊密な関係を保っていたようであり、彼自身の彩色彫刻にはイギリスの彫刻家ジョージ・フランプトンの『死の天使』や『神秘の王』に通づるものがある。
そしてそれらは同時にドイツのマックス・クリンガーの作品を喚起させるものである。
のちにグスタフ・クリムトはクノップフの影響を受けたと思われる作品を多く描いているが、1898年にウィーンで開催されたセセッション展にクノップフの作品が展示されたことと無関係ではない。
このように、ほぼ同時期にヨーロッパ各地で見られる世紀末的な特色は地域の壁を感じさせないのは興味深い。

クルス大通りのクノップフの住居にはヒュプノスに捧げられた祭壇が立っており、その両側はティファニー制作の瑠璃ガラスでできていて、キマイラを模った金塗りのブロンズ像に支えられていた。
そこには"ON N'A QUE SOI"(人は自分自身しか持たない)と刻まれていた。
彼の住居に飾られていた古代風の頭部彫刻は『私は私自身に扉の鍵をかける』に見ることができる。

生涯の殆どを独身で過ごしたクノップフであるが、その理由については諸説有り、彼がモデルとして多く描いた実妹マグリットを偏愛していたからだとも言われている。
しかしながら1908年、50歳の時にクノップフはマルトという女性と結婚している。
その結婚生活は僅か3年後には破綻してしまったのである。

Kn

| | コメント (0)

2007年12月18日 (火)

Two Walls

W01

W02

1世紀ローマの博物学者であるプリニウスは、その著作である『博物誌』において絵画の誕生を記している。

ギリシャのコリントスの陶工ブータデスの娘は、自分の恋人が立ち去ろうとする時、何とかして彼の面影を自分のそばに留めておきたいと思った。
そこで娘は、炭を手に持つと、炭火に照らし出された若者の顔が壁の上に落とす影をずっと線でなぞって、その相貌を描き出したという。
それが世界で最初の「肖像画」であった。
それは文字通り「影」の世界であり、「実物」の不在を補い、「実物」の代わりを務めるためのものであった。

ー高階秀樹氏著『20世紀美術』よりー

| | コメント (0)

2007年10月21日 (日)

レモンと蜜柑

ひとつのレモンがひとつの蜜柑のそばにあると、レモンでも蜜柑でもなくなり、果物となる。
数学者はこの法則を追う。われわれも同じである。

これはピカソと共にキュビスムを生み出したフランスの画家ジョルジュ・ブラックの言葉である。
近代絵画の特質である抽象化の概念がここにある。

Frdh

| | コメント (3)

2007年10月 5日 (金)

Only half a century

近代絵画の基礎を築いたと言われているクールベやマネの絵画は、緻密な写実主義を実現すべくカンバスを埋めていった大量の顔料により非常に暗い画になっていた。

彼等を師と仰ぎながらも自然の太陽光の明るさをカンバス上に再現できないものかという試みがモネやピサロなどの印象派によって追求されていった。
つまり印象派が目指したものは絵画をより自然に近づけようとする試みであり、すなわち写実主義をさらに推し進めようとするものであった。

皮肉なことに、モネたちの絵画は結果としては対象となる自然のモティーフからどんどん離れていき、より抽象的なものに近づいていってしまった。
晩年のモネが描いた睡蓮の連作などはまさしく抽象絵画の先駆といえるだろう。
明るい絵画を描くためにカンバス上に描かれたものは明確な対象物ではなく光や靄などが主体となった。
混ぜ合わせることで明るさが失われる顔料は、小さな色の点としてそのままカンバスに並べられ、印象派独特の筆触分割を生み出した。

ゴッホやゴーギャンはその色の点をよりダイナミックにとらえて、それぞれの色の持つ意味を絵画にそのまま持ち込んだのである。
そこからドランやヴラマンクなどのフォーヴィスムは生まれていった。
色彩は対象から分離してそれ自身で画家の情念やイメージを表すようになり、反対にカンバスに描かれる対象物は個性を失っていった。
「絵画を単純化」してしまったマティスを経て、やがては抽象的形態のコンポジションを追求していくカンディンスキーが登場することになる。

そして、一方では印象派の絵画に乏しかった造形的な要素を救い出したのがセザンヌであった。
「自然を円錐、円筒、球体としてとらえること」というセザンヌの言葉は、やがてピカソやブラックによってキュビスムを派生させることになる。
背景をほとんど切り捨て、対象物をいかに造形的にカンバスに定着させるかという探求から始まったキュビスムだが、やがて対象物を平面に還元するような方向に進んでいった。
キュビスムをそのまま推し進め抽象化していった先にはモンドリアンの新造形主義が位置することになる。

ところで印象派の名のもとになったモネの「印象・日の出」が描かれたのが1873年であり、モンドリアンが新造形主義を完成させたのは1920年ごろである。
僅か半世紀の間をおいて描かれたこれらの作品の相違においても、いくつかの段階を考察してみれば十分に理解の範囲にあるのだ。

高階秀爾氏によれば近代美術の特質は「分化」と「強調」にあるという。
これは絵画や彫刻に限らず、音楽においても同じように論じることができると私なりには思っている。
(例えばヴァーグナーの楽劇とウェーンベルンの作品などを比較すれば)
それはまたの機会に持ち越そすことにしよう。

Impression  Mondrian

| | コメント (3)

2007年8月30日 (木)

予定は未定

Md
ピカソと比較しうる芸術家と言えばストラヴィンスキーを思い浮かべる。
絵画と音楽というフィールドの違いこそあれ、ピカソは91歳、ストラヴィンスキーは88歳と共に非常な長生きをしたこの2人の芸術家には似通った点が多い。
エトランゼであったこと、様々な形式上の変遷があったこと、晩年には古典に回帰していったこと等々、細かくあげていけば面白いくらいに共通している。
そしてピカソが「アヴィニョンの娘たち」で成し遂げた過去の作品からの驚くべき飛躍と同様の革新性をストラヴィンスキーの「春の祭典」に見たとき、両者の近代芸術史における重要性を改めて認識するのである。
(いずれ時期を見て細かい考察を書いていく予定)

| | コメント (0)

2007年8月19日 (日)

イヴ・クライン

倖田來未が宣伝したこともあって日本でもちょっと知られるようになったブルーマン・グループだが、TVで初めて見たときにイヴ・クラインを連想してしまった。

イヴ・クラインといえば「モノクロミスム(単色主義)」を提唱したことで知られている。
1928年に生まれ1962年に急死するまでの34年間のうちアーティストとして活動したのはわずか8年足らずであったが、第2次大戦後の美術界に鮮やかな足跡を残した。
当初、柔道家を目指していたクラインは1952年に来日し、講道館で段位を取得するもヨーロッパの柔道連盟からは認められず、挫折を味わった。
その後、絵画に転向したクラインが1955年に開いた個展はカンバスを単色に塗りつぶしたものであった(モノクローム絵画)。

当初は様々な色によるモノクローム絵画を制作していたクラインであったが、やがて彼は青色だけを選び、それに特化した作品の制作だけを行うようになった。
彼が作り出し、特許を取ったインターナショナル・クライン・ブルーはニース生まれのクラインが幼年時代から親しんだ地中海の青と空の青を反映したかのような深い青色である。
彼が行った「青のモノクロミスム展」では、展示作品のみならず、照明やパンフレットに至るまでが青色に統一されていたという。
クラインがここで目指したものは、青色だけを展示空間に拡散させるということであり、作品は壁に展示されているのだがあたかも香りのように空気に溶け出して非物質化されるというものである。

その後、クラインは作品の非物質化を徹底させるために「空虚展」を開いた。
入り口から会場までの通路はインターナショナル・クライン・ブルーで統一されているのだが、実際に会場にはいるとそこには何も展示されていないというものである。
つまり青色は完全に会場内の空間に溶け込んでしまった結果、不可視なものになってしまったということである。
この考え方にはネオ・ダダ的なものも感じられるが、目的ではなく結果として行き着いたというところが違うとも言える。

1960年からは有名な「人体測定」作品の制作が始まった。
これはパフォーマンス・アートでもあり、青色の顔料を塗りつけられたヌードモデルたちがカンバスに身体を押しつけたり、カンバスの前に立たせたモデルに青色の顔料を吹き付けたりして作品を制作すると同時に、クライン自身の作曲した「モノトーン・シンフォニー」という楽曲を楽団に演奏させる(指揮はクラインがとる)というものである。
出来上がった作品は人体の魚拓のようなものであり、また原爆により残った人の影のようでもある。
おそらくはクラインの日本における様々な見聞や体験が反映しているものと思われる。
そしてここでも可視なものと不可視なものがテーマになっているのであった。

International_klein_blue
※インターナショナル・クライン・ブルー(近似色)です。壁紙にどうぞ(・ω・)

| | コメント (0)

2007年8月14日 (火)

The theory for the picture

Asb
絵画史についていろいろ調べていると、新しい主義が派生するのと同時にそれを裏付ける確固たる理論が生まれていることが興味深い。
ニワトリと卵の話ではないが、作品と理論はどちらが先に生まれたのであろうか。
ことに近代絵画、すなわち印象派以降にその傾向が強いことは、主流であるアカデミーと反目するためにはそれなりの強い裏付けが必要であったためだと思われる。

芸術のなかでも例えば音楽が理論を伴うものであることは理解しやすいが、それに対して絵画はずっと感覚的なものだと思っていた。
しかし画家がカンバスという平面上に色を用いて作り出した自分の作品を通して、何を見るものに伝えたいのかということは、しっかりとした理論のもとにおいて初めて理解されるはずである。
マルセル・デュシャンがモナ・リザに口髭を書き入れて作品として公開するのも、ダダイストとしての裏付けがあったからで、そういうのが何もなければ単なるイタズラ書きになってしまうわけである。

※近いうちにこのテーマはちゃんと書きます(・ω・)

| | コメント (2)

2007年7月29日 (日)

ピエト・モンドリアン

フランシス・ピカビアが世界初の抽象画といわれる「ゴム」を描いたのが1909年、さらに翌年にはワシリー・カンディンスキーが水彩の抽象画を描いている。
現代絵画の代名詞のように思われている抽象絵画だが、何だかんだいってもそろそろ一世紀が経過しようとしているのだ。
とはいっても私がカンディンスキーの作品を見て幸福な気分に浸れるようになったのはごく数年前からだし、以前は20世紀絵画には少しの興味も持つことができなかったことも事実である。

私が小学生の頃の話だからもう40年位前になるが、下手くそな訳の分からない絵を描くと「ピカソみたいだ」といわれたものである。
今から考えたらとんでもない誤解だが、先日も仕事先の20代の人が「美術展とか好きですがピカソとかはサッパリ分からないですね」などと言っていた。
なんだ私の子供の頃と大差ないのだなと思った。
パブロ・ピカソが偉大な芸術家であることはここで書くまでもないが、キュビスムを経て様々な伝統を破壊してきた彼が描いていたのはあくまでも具象画であった。
例えどれほど変形されていようと、カンバスに描かれているのは画家の目が見た対象物である。

では抽象絵画においてはどうか。
カンバスの上に対象物意外に何を置けばよいかという問題の答えを出すためにカンディンスキーは十数年の歳月を必要とし、一生をその探求のうちに終えたのである。
その手段として様々なアプローチを試み、晩年には偉大なる統合の時代を迎えるのであった。
彼が抽象絵画の父と呼ばれる所以である。
しかし、同じ抽象絵画でもカンディンスキーとは全く異なったジャンルの絵画が存在する。
それがピエト・モンドリアンを中心とする「新造形主義」の絵画である。

モンドリアンの絵画を目にしたのは学生時代に美術の教科書である。
赤・青・黄色と黒白の線と面だけで構成されたその作品は、絵画というよりも単なるデザインにしか思えず、これが美術作品であるとはとても思えなかった。
定規と絵の具さえあれば誰でも同じようなものが描けるはずだから。
サルバドール・ダリがモンドリアンの作品を全く評価しなかったというのも至極当然に思えた。
余談だが、初めてルービック・キューブを見たときの印象は「あ、モンドリアンだ」というものであった。

機会あって、モンドリアンについて少し調べてみた。
ピエト・モンドリアンは1872年生まれであり、つまりヴラマンクやピカソよりも年長である。
20歳くらいから絵画を学びだした彼が抽象画に転向したのは40歳を過ぎてからであり、当時キュビスムが全盛であったパリに移り住んだことが大きなきっかけになったのである。
カンディンスキーやドローネがフォーヴィスムから派生したと考えられているのに対し、モンドリアンの新造形主義を生み出したのはキュビスムであった。
対象物を解体し平面に再構成するキュビスムの方法論から対象物を消し去ったときに、あの幾何学的な構成が生まれたわけである。
1909年頃から始まった「樹」の連作は、年を追うごとに枝と幹の直線だけの描写になり、やがて「+」と「ー」だけの絵画に近づいていった。
1920年にはモンドリアンは「新造形主義」の理論書を刊行し、厳しい禁欲的な作品を制作し続けたのである。

この時期のモンドリアンの制作について高階秀爾氏は次のように記している。
「1920年代の、あの垂直線と水平線だけのモンドリアンの構図は、オブジェを否定し去って、ただそのオブジェの存在を可能ならしめる「場」の基本的な骨組を、イマージュの世界に還元したものにほかならない。それは、いわば二十世紀の新しい透視画法による空間の表現であり、しかも空間のみの表現である」
カンディンスキーは何をカンバスという平面上に置くかを探求したが、モンドリアンは平面自体を追求したのである。
この理論に裏付けされているが故に、彼の作品はまぎれもない芸術となっているのだ。

第二次大戦が始まると、モンドリアンは戦禍を逃れてニューヨークにやって来た。
まもなく70歳になろうとする頃である。
そこで出会った高層建築やジャズなどの音楽が彼に新たな創作エネルギーをもたらした。
モンドリアンが残した最後の作品となった「ブロードウェイ・ブギウギ」には、かつての禁欲さに代わって華やかで楽しいリズムが溢れている。
もちろん画面を構成するのは直線による幾何学的なものであるが、見るものに大都会の全体像を喚起させるものになっている。
画家が目に見えるものだけをカンバスに描いていたら決して表現できないであろう都市の姿はモンドリアンの生み出した「透視画法」によって見事に再現されたのだ。
私はこの絵を見てほんの少しではあるがモンドリアンの何かを理解できたような気がした。

Broadway_boogiewoogie

| | コメント (3)

2007年4月30日 (月)

雅な宴 Antoine Watteau

17世紀の終わり、音楽史ではちょうどバッハやヘンデルと同時代に、フランスにおいてひとりの天才画家が活躍した。
ジャン・アントワーヌ・ヴァトー(Jean Antoine Watteau)は1684年、フランドルとフランスの国境近くのヴァランシエンヌの町に生まれた。
ちょうどルイ14世(太陽王)の治世が終わろうとしていた時期であり、彼の曽孫にあたるルイ15世へと王位が受け継がれるまでの間をオルレアン公が摂政を務めた時期でもあった。
世紀の変わり目であり、ひとつの大きな時代の変わり目でもあったわけだ。

ヴァトーは「雅な宴」の画家といわれる。
28歳の若さでアカデミーの会員資格を得た彼は、画面の構成力においても、写実的表現力においても並々ならぬ才能を発揮していたが、彼が絵画史において最も優れたひとりに数えられるのはそのためばかりではなかった。
ヴァトーの描いた全ての絵画には繊細な感受性が溢れ、その洗練された色彩感覚は無限の広がりを持っている。
近代の印象派をも彷彿とさせる抒情性に満ちた彼の絵筆は、現実の世界を一篇の詩に変えてしまうほどである。

有名な「シテール島の巡礼」(1717)はヴァトーがアカデミーの入会作品として描いたものである。
実はヴァトーのアカデミー入会はこの作品の5年前から決定済みであったという。
28歳という若さでそれほどの評価を受けるほど、彼の天賦は世間的に知れ渡っていたのである。
しかし世俗的な名誉や地位に無関心であったヴァトーは5年もの間、アカデミーに作品を提出しなかった。
彼の作品は生前から多くの支持を得ており、宮廷やアカデミーの力を借りる必要は全然無かったわけである。

ヴァトーの作品には全てある種の悲哀が感じられる。
たぐいなき筆致で描かれた彼の絵画はほんとうに優美で典雅なものであるけれど、それが永遠に続くものではないことも見るものに感じさせる。
つかの間の美しさこそが彼の描きたかったテーマであり、彼の描いた人物の表情が、その優しい情景にときにそぐわないほどに厳しく冷たいものを窺わせるのはそのためなのであろう。
ヴァトーが好んで描いた演劇をテーマとした舞台画などにも、作り物であるがゆえの現実ばなれした美しさと、はかなさが同居しているのである。

生涯、病身であったヴァトーは33歳でアカデミーに入会した後、わずか4年で夭折した。
彼が生み出した「雅宴画」というジャンルは、その後何人かの後継者を輩出したが、誰もヴァトーのようには描けなかった。
17世紀と18世紀の変わり目を流星のように駆け抜けたヴァトーの生涯もまた、はかなく美しい彼の画風のままであった。

Assemblee

| | コメント (0)

2007年4月14日 (土)

Primavera

四月は残酷極まる月だ
リラの花を死んだ土から生み出し
追憶に欲情をかきまぜたり
春の雨で鈍重な草根をふるい起すのだ

T.S.エリオット『The Waste Land』より

新学期が始まったり、年度が替わったりして自分のまわりの環境が変化を余儀なくさせられるから、四月は精神的にきつい月である。
学生の頃はクラス替えがあったり、担任が代わったりというのが結構苦痛であった。
そういうのが全然平気な奴もいるのだが、私はダメだな。
環境に馴染むまで早くても2ヶ月、かかるときは半年くらいを要してしまう。
ましてや新入生とかの場合だと登校拒否こそしなかったが、しばしば吐き気を催すことがあった。
入学してからその学校に馴染むためにほとんど最初の1年を使いきってしまうために、中学や高校で楽しく過ごしたのは2年間ずつみたいなものである。
かように環境が変わることに弱い自分であるが、その一方では新しい世界を望む気持ちも強くて、相反する思いを抱えたまま現在に至っている。

高階秀爾氏の『ルネッサンスの光と闇』のなかにボッティチェルリの『春』についての考察があり、この絵画において一番左に位置するマーキュリーが「死の使者」であることから、春は生命が誕生する一方で死んでいくものが同時に存在することが言及されている。
それはまた、死と復活という構図を持つことからキリストとの関連があり、それを裏付けるようにキリストの復活を主題として描かれた数多くの絵画において、その背景に冬から春への移り変わりが描かれていることが述べられている。

「復活の祭りは春の祭りと同じ意味を持つものである。少なくともそれらは、まず『死』の世界があってしかる後に甦りがあるということで共通している。とすればボッティチェルリの《春》において、中央のヴィーナスを中心とする華やかなグループが、左端のマーキュリーによって先導されていること、そして、マーキュリーが、ここでは『死の使者』として登場していることも、十分にうなずけることであろう。つまりこの『春』は、死の後に続く甦りの『春』なのである。」(同書より)

人の子として死んだキリストは神の子として甦った。
この春に自分の中でいままでの何がなくなり、何が新たな形を持って生まれていくのかはまだ分からないが、ともかくしっかりと受け止めていかなければと思う。
ちょっとしんどいかもしれないが、そのためにGWがあるのだろう。

Primavera

| | コメント (0)

2007年3月26日 (月)

Constantin Brancusi

先日、国立新美術館で開催中の「異邦人たちのパリ ポンピドーセンター所蔵作品展」を見てきた。
同美術館のオープニング記念ということもあって、200点以上もの作品が展示されていて、その中にはPicassoやChagallなどの作品も含まれていた。
前にも書いたが、複製で見るのと実物を見るのでは全く違う体験と言えるのが芸術作品である。
Kandinskyの幾何学的な抽象絵画やHartungの毛筆のようにダイナミックなタッチの絵画は写真ではさっぱり伝わらなかった息づかいがこちらに伝わってきて、圧倒された。
しかし、今回の私の目的はただ1点の彫刻作品を見ることであった。
それはConstantin Brancusiの「Muse endormie(眠れるミューズ)」である。

1876年にルーマニアで生まれたBrancusiは11歳の時に家を出て、職を転々としながら放浪生活を送っていた。
18歳になってから最初は地元の美術工芸学校で学んだ後、ブカレストの美術学校で美術を学び、大工仕事などに従事しつつ1904年にパリに移った。
パリ美術学校で彫刻を学んだBrancusiは、MercieやRodinのアトリエに通い、Rodinからは助手になるように勧められたがこれを断った。
本来、職人気質であったBrancusiには直彫りへの強いこだわりがあり、塑像彫刻家であったRodinとは相容れないものがあったことはAmedeo Modiglianiのときに書いたとおりである。
このころ1907年に制作した「祈る人」が対象の抽象化への転機となった。

Brancusiは抽象彫刻家として定義されるが、対象から離れてその形態の持つ意味を探ろうとするわけではなく、むしろ対象そのものの中に入り込んで、その本質を追究するという姿勢が見られる。
その意味では彼は徹底的なリアリストであったともいえる。
代表作である「空間の中の鳥」などでは、その造形は一般的な鳥の形とはかけ離れているが、飛翔する鳥の本質を追究した結果の形態であることが、その磨き抜かれたフォルムから伝わってくる。
Herbert ReadはそうしたBrancusiの芸術を「本質と存在との総合」と表した。
そこでは表面上の量感(mass)は失われてしまい、結果として外見上は抽象的な形態となってしまうのである。
「ほんとうに現実的なものは、事物の外から見えるかたちではなく、そのなかにひそむ本質である。この真理を出発点とするかぎり、もはや事実の表面だけを真似ることで現実を表現することなど、誰にとっても不可能なことである」
というBrancusiの言葉はそうした彼の芸術を物語るものである(訳:高階秀爾氏)

「Muse endormie(眠れるミューズ)」は1908年頃から構想された連作で、このコロンとした卵形のフォルムは後の「新生児」や「プロメテウス」などにも引き継がれていくBrancusiの代表的な形態である。
Ezra Poundはこの卵形のフォルムについて次のように書いている。
「卵形の作品の場合には、Brancusiはあらゆる重力の法則から放された純粋のフォルムを追求している・・・。そして、その試みに彼が見事に成功した証拠は、それらの作品がどのような方向から眺めても生きているように見え、今にも飛び立ちそうに思われることである・・・」(訳:高階秀爾氏)

国立新美術館に展示されている「Muse endormie」はショーケースの中で静かに眠っていた。
覗き込むと、それを見ている私自身の姿がMuseの表面に歪曲して写っていた。
私は色々な方向や角度から眺めては飽きることを知らなかった。
照明が作品の下に落としている影さえも、完璧な曲線を描いていたのであった。
「彫刻作品はただ出来がよいというだけでは不十分である。それは手で触れてここちよく、近づきやすく、しかもいっしょに住んで気持ちのよいものでなければならない」というBrancusiの言葉がこんなに実感できたことだけでも、今回の展示には価値があったといえる。

Brancusi

| | コメント (0)

2007年3月18日 (日)

Emil Nolde

私たちが絵画や写真を見るとき、まず目に飛び込んでくるものは色彩である。
それは鮮やかな花の赤であったり、目の覚めるような空の青であったりするわけだが、周知のように色彩は光線の反射によってのみ感知される。
だから全く光のない場所では全てのものが色を持たず、したがって黒の世界となる。

また、色彩は光線の種類によって全く異なった色となる。
身近なところでは太陽光線と蛍光灯とでは色の感じが違って見える。
お店で買った洋服が外では全然違った感じに見えて驚くことも多々あるのだ。
モニターで見る画像にしてもキャリブレーションが違えばその色はそれぞれ違ってくることはデジタルカメラを使うものならば誰でも経験済みであろう。

絵画における色彩を考えていたら、エミール・ノルデのことが頭に浮かんだ。

エミール・ノルデ(1867−1956)は本名をエミール・ハンセンという。
ノルデというのは彼が生まれた村の名前をとったものである。
はじめ木彫の職人として訓練を受けていたが、やがて画家を志してスイスに渡り、水彩の風景画を中心にした絵画や絵葉書を売って生計を立てたという。
その後、ミュンヘン、パリなどで学んだノルデは1906年にドレスデンで開いた個展を通じて「ブリュッケ」のメンバーと知り合った。
芸術家集団「ブリュッケ」はエルンスト・ルードヴィヒ・キルヒナーを中心にドレスデンで結成された表現主義のグループで、ちょうどフランスにおいてフォーヴィスムが登場したのと時期を同じくしている。
キルヒナーはノルデの作品に接し、その力強さに感銘を受け、自分たちのグループに入るよう要請したのである。
ノルデはその招きに応じて参加したものの、元来孤独を好む性格であった故に翌年には早くも脱退してしまった。

その後ノルデはは全く孤独な活動を続ける。
彼の創作の柱になっていたものは宗教画、風景画、そして幻想絵画である。
それらを通しての特色として、原色を多用した強烈な色彩と、単純で力強い造形性が挙げられる。
特に色彩については並々ならぬ探求が見られ、使用する色数は晩年になるほど少なくなっている。
限られた色の相乗効果によって豊麗な色の饗宴を生み出すことがノルデのテーマであった。
「彼は自分の使いたい色を塗った板を何週間か家の外に出しておいて雨風に打たせ、次いでそれを今度は戸棚のなかに長いことほうりこんでおいて、その後でも最初と同じ輝きを失わなかった色だけを自分の作品に用いるようにした」(高階秀爾)

また、ノルデがニューギニアに旅行した後に友人に現地で描いた画を見せた時、その奇抜な色彩に驚いた友人が、ニューギニアでは空はこんなに緑色をしているのかと聞いたところ、
「そう聞かれても、実のところどっちだかわからない。だけどそのようなことは個々の色を取り出してもだめだよ。この緑がほかの色に対してどういう関係にあるかと言うことだけが問題なのだよ」
とノルデは答えたという。

孤独な幻想家であったノルデはしばしば舞踏をテーマにした。
代表作のひとつである『蝋燭踊りの女たち』では強烈な色彩とねじ曲がった踊り子のポーズが悪魔的な幻想性を醸し出している。
彼の他の作品にも見られる極端なデフォルマシオンは、対象から感じ取った生命の根源的なイメージの具象化なのである。
ノルデはこう言っている。
「絵を描くことは絵を描くことで、それ以外の何ものでもない」

Nolde

| | コメント (0)

2007年3月 4日 (日)

Amedeo Modigliani

20世紀のはじめ、パリが芸術の都として世界中の芸術家を強力な磁力で引きつけていた時期があった。
シャガールをはじめ、スーティンやモンドリアン、キスリング、藤田嗣治等々、美術史に名を残す錚々たる芸術家たちがこの都市に集まってきていた。
彼らを総称して「エコール・ド・パリ」と呼ぶようになったのは後のことであるが、その中のひとりにイタリアからやってきたアメデオ・モディリアーニがいた。

アメデオ・モディリアーニ(1884−1920)のドラマティックな生涯はジェラール・フィリップ主演の映画『モンパルナスの灯』(1958)やアンディ・ガルシア主演の映画『モディリアーニ真実の愛』(2004)で知られている。
イタリア系ユダヤ人としてリヴォルノに生まれたモディリアーニは、フィレンツェやヴェネツィアで学んだ後に1906年パリにやって来た。
当初、彼が住み着いたのはモンマルトルにあった通称「洗濯船」という長屋のような住居であった。
かつてはピカソも住んだという「洗濯船」は当時、画家や彫刻家、詩人など貧しい芸術家たちの住み家となっていた。

「洗濯船」に住む若い芸術家たちは、ピカソを除いてはみな大酒飲みであったという。
モディリアーニもその例外ではなく、つねに酩酊状態であった。
また彼は非常な好男子であったために、多くの女性から言い寄られたと言われている。

パリに住み着いた当初、モディリアーニが師事したのはルーマニア出身の彫刻家ブランクーシ(1876−1957)であった。
1909年に知り合うと、モディリアーニは数年間は直彫りの彫像を作り続けた。
もともとは彫刻家志望であった彼は、ブランクーシから黒人彫刻の影響を受けた。
ついでに書けば、このブランクーシは生涯に渡って直彫りにこだわった彫刻家であり、その才能を高く買ったロダンから弟子入りの話があった際にも、塑像彫刻を基とするロダンとは相容れない部分を感じたために断っている。
ブランクーシにとっては彫刻と削り取って成すものであり、だんだんと肉付けをしていく塑像彫刻は認めがたいものであったのだ。

1913年になると、モディリアーニはモンパルナスに移り住み、本格的に画家に転向する。
彫刻家になるには彼の体力が弱すぎたこともあったが、何よりも彼の経済状態が、初期投資の大きい彫刻を断念させた。
なかなか売れない彫刻よりも絵画のほうが手早く金に変えられたからである。
しかし彼が彫刻から学んだものは、その絵画に独自の特色をもたらしている。
モディリアーニの絵画の対象は、ほとんどが肖像と裸婦であり、背景や余計な装飾は徹底して省かれている。
そしてその肖像は細長い顔と長い首が特徴的だが、これはまさに黒人彫刻から学んだ表現である。
さらに肖像、裸婦とも造形性にすぐれていて、シンプルな画面には空虚な部分が少しもない。
モディリアーニが使った色の数は決して多くはないが、極めてデリケートな配色が描かれた人物に血を通わせる。

1917年にモディリアーニは後の妻であるジャンヌと知り合った。
翌年、女の子が生まれたが、彼の健康は急速に衰えていった。
ひどい貧困と大量の飲酒、薬物が彼の身体をボロボロにしていたのである。
1920年の1月、寒波がパリを襲った日に倒れたモディリアーニは病院に運ばれたが、その翌日に息を引き取った。
酒と詩を愛し、多くの女性や詩人に愛された芸術家は36歳で命を終えた。
モンパルナスの仲間たちが彼の葬列をしている最中に、妻のジャンヌはアパートの6階から飛び降りて彼の後を追ったのであった。

Modigliani

| | コメント (0)

2007年2月18日 (日)

アンリ・マティス

1978年に初来日したBOB DYLANが来日前にPLAYBOY誌のインタビューで言っていた言葉に「芸術家は飢えていなければならないという神話は神話に過ぎない」というのがあり、彼は続けて「マティス、彼は銀行家だった」と言っている。
(DYLANはインタビューにおいて相手をはぐらかすような態度を良く取るのだ)
その時はふーんと読み流していたが、30年近く経った今でも頭に残っていたようで、マティスに関して間違った偏見を抱いていたままでいた。

そう、アンリ・マティス(1869−1954)は銀行家であったわけではない。
学生時代はパリで法律を学び、19歳で司法生の資格試験に受かると、マティスは弁護士事務所で見習書記になった。
翌年、盲腸炎を悪化させてほぼ1年間にわたり病床についたマティスは、退屈をしのぐために絵画に取り組むようになったのである。
回復後、再びパリに戻り国立美術学校でギュスターヴ・モローに師事した彼は、当初ラファエロらの模写により伝統的な絵画技術を身につけ、1896年にはサロンに入選を果たしている。

マティスの芸術に決定的な影響を与えたのは、ポール・セザンヌ(1839−1906)であった。
何よりも色彩と造形において自己の表現を成し遂げようと試みたセザンヌは、印象派の枠を大きく超えてしまったのである。
幾何学的な構成はやがてブラックやピカソによってキュビズムへと発展し、色彩はゴーギャンを経て、マティスやヴラマンクらのフォーヴィスムへと繋がっていった。
近代絵画史においてセザンヌが20世紀絵画の父と言われる所以である。

1905年アンデパンダン展に出品された「豪奢・静寂・逸楽」はマティスがセザンヌや新・印象派の絵画との出会いから生み出された成果が現れている。
ボードレールの「旅への誘い」のルフランからその題名が取られたこの絵画において、マティスはスーラのような点描を用いているが、個々の点の色は7色の虹のように非常に自由なものであり、明らかに自然主義的な色彩からの解放が見られる。
また、造形においては浜辺に憩う人たちの古典的な配置にセザンヌからの影響が見られる。
その半年後にサロン・ドートンヌで開かれた展覧会において、マティスをはじめ、ヴラマンクやドラン、マルケらの作品が一堂に集められ、それを見た批評家ヴォークセルが書いた「フォーヴ(野獣)」という言葉がフォーヴィスムという語を生んだのであった。

急進的な動きはいつの世においても長続きはしないものだが、フォーヴィスム自体も2年ほどで衰退した。
激しい色彩により感情を表現することには限界があったためで、ルオーが宗教的題材に向かい、マルケは抒情的な風景画に独自の味わいを見いだした。
そして、マティスは絵画のさらなる単純化を目指していったのである。
1910年にマルケとドイツに旅行した際にマティスはイスラム美術に出会った。
イスラム美術の平面的・図案的な構成は、彼の方向性を確認するのに十分であった。
当初から、マティスには絵画に感情を持ち込むような要素は皆無で、フォーヴィスムの中心人物とされていたが、それは自由で激しい色彩によるものだけであった。
彼にとっての絵画は色彩と構成のハーモニーであり、文学的なものではなく、家具のようなくつろげるものであった。

その後のモロッコ旅行などで、東方の美術に接近していったマティスは、「ダンス」のような造形的作品や「モロッコ人たち」のような抽象的な色彩作品を生み出した。
彼の絵を見てピカソが「マティスはお腹の中に太陽を持っている」といったように、快活な画風で思いがけない色彩を駆使し、しかも調和を崩すことがない芸術はマティスならではの魅力である。
一見すると無造作に描かれているように見える作品たちに、実は綿密な構成原理が働いていること、それがあまりに見事なために見逃しがちなのだが、抜群のセンスを感じ取ることができる。
それはマティスがフランス人であると言うことにも大いに関係がありそうである。

Nude

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年2月 4日 (日)

Art of a picture

かつてレオナルド・ダ・ヴィンチはその『絵画論』において絵画の優位性を述べている。
「もし君が、地獄なり天国なり、あるいはその他の幸福や恐怖を言葉で巧みに描写してみせようと言ったとしても、画家は容易に君の上に出ることができるだろう。なぜなら画家は、そのような至福の状態や、あるいは思わず逃げ出したくなるような恐ろしい状況を的確に表現して、それらの沈黙の世界を君の眼の前につきつけることができるからだ」(高階秀爾『フィレンツェ』より)
これはダンテの詩よりも絵画は優位性を持っていることを表した言葉である。
もちろん、レオナルドのようにその絵画に完璧な表現技術を持っていることが前提ではあるが、それはまた絵画が「視覚」による芸術であることが重要なのだ。
「すべて事物はそれに対応する感覚と同じ尊厳を持っているものなので、視覚を満足させる絵画は、聴覚しか満足させない音楽よりもいっそう高貴な芸術である」

私はレオナルドの言葉に完全には同意できないが、絵画の特性については頷ける点も多い。
たとえば、私たちが音楽を聴く場合、例えば3分の曲を聴く場合は3分間、ブルックナーの第8交響曲を聴くとなれば90分間はその音楽と向かい合わなければならない。
コンサートにでも出かければ2時間〜3時間はある種の集中力を持って演奏者と向き合わなければならないわけである。
対して絵画の場合は、その作品の前に立ちさえすれば、画家の意図は見るものに伝わるのである。
いいかえれば、一度にその全体像を受け手に伝えることができるのが絵画であると言える。

絵画と音楽の共通性については吉田秀和氏がわかりやすく書いている。
すなわち、どちらも始まりから終わりまでを辿って鑑賞するものであるということ。
音楽の場合は作品自体が始まりと終わりを明確にしているため、聞き手は何も注意しなくとも流れを追っていくことができる。
しかし、絵画の場合はまず全体を見て、その後で鑑賞する側が画家の制作過程を追っていくことをしなければならない。
一本の線、小さく置かれた色にその意味を見いだし、反応していかなければならないのである。
つまり絵画を鑑賞するためには鑑賞する側にそれなりの能力が要求されるわけで、単にきれいな絵であるとか、精密に描かれているとかだけでは鑑賞したことにはならない。(確かにそういうレベルの作品も存在するが)

一枚の絵画に何十億円という値段が付けられていたりするので驚くこともあるが、何世紀もの間、無数の鑑賞に耐えて今もなお輝きを失わない作品には、やはりその価値が有るのだろうと考える。
また、基本的にひとつの絵画作品はそれが唯一無二のものであるが故に、その存在価値は大きい。
だから私たちは遠くスペインやローマやフィレンツェなどに足を運び、教会のフレスコ画を見たり、美術館を訪れたりするわけである。

音楽や文学が芸術で絵画に劣るものだとは少しも思っていない。
私たちは自宅にいながら、或いは外出の際にもそれらを携行することができる。
昼休みに弁当を食べながら純文学を読んだからといって、その作品の価値が貶められるものでは決してない。
通勤電車の中でiPodでドビュッシーを聴いたってちっとも構わないのである。
しかし、カレンダーの名画の複製を見るのと、実物の作品を見ることは全く別のものであることも事実である。


Masaccio

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月26日 (金)

Fly Highly

ひとりのアーティストが新たなステップを踏み出したときに、旧来の支持者が取る反応は2通りある。
ひとつは新しい方向に進んだアーティストを受け入れ・歓迎するというもの、もうひとつは拒否して非難の声を上げるというものである。
後者の場合、かつての支持者たちが声高に叫ぶのは「昔に戻れ」という意見である。

ベートーヴェンが第3交響曲「英雄」を世に出したときも、彼の支持者たちは「何故こんなに複雑で難解な音楽を作るのか。もう一度第1交響曲のような素直な曲を作りたまえ」と彼に意見したという。
また、ゲーテにおいても、いつまでも「若きウェルテルの悩み」を引き合いに出されるので本人はずいぶん閉口したといわれている。
しかしながらハイドンの影響が多分に見られる第1交響曲から第2を経て作曲された「英雄」は、前2作から遙かに高い次元の作品へと飛躍したということは今では誰でも理解できるわけで、それは同時代の支持者を得ることがいかに難しいかということでもある。

そう、アーティストの進化を正しく判断するためにはそのアーティストと同じイマジネーションを共有しなければならないのだ。
あるいはそのアーティストに対して、かなりの許容度を持っていなければならないともいえる。
ある意味においては、過去の作品にこだわりを持つ支持者というのは、理解を示す者に比べて、より熱狂的であるかもしれない。
すなわち、過去の作品というものは既にある程度の評価が固まっているし、十分に味わい尽くすことができるからである。

もっと具体的な例としてBOB DYLANが思い浮かぶが、彼がフォークソングからロックに移行したとき、またカントリーっぽいアルバムをリリースしたとき、キリスト教に改宗してゴスペル色に染まったとき・・等々にそれまでのファンが叫んだブーイングの多さは計り知れないものであった。
しかし、今となってはひとりのアーティストが辿った過程として、誰もが俯瞰できる立場にあり、何故あの時はあれほど非難の声が上がったのかを理解する方が難しい。
そして現在でもなおDYLANは変化し続けているのだ。

さてSalyuの『TERMINAL』の素晴らしい出来映えについては先日書いたが、彼女のLily Chou-Chou時代からのファンからは多少の不満の声が聞かれるようだ。
曰く「『呼吸』の頃の神秘性が失われた」「心に響く曲が少ない」などなど。
要はSalyuの歌ならびにその存在に、映画『リリィ・シュシュのすべて』における〈エーテル〉を期待し求めている人がいるということである。
アルバム『TERMINAL』の中にも例えば「I BELIEVE」のように、その要素を持つ曲はあるが、Salyuはそこにとどまる気はさらさらないようだ。
その次に収録されている「夜の海 遠い出会いに」がSalyuの飛翔を聞くものに感じさせてくれる。
すなわちLily Chou-Chouからの飛躍を・・
彼女を支持するものはそれについていかなければならない。

Sky

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年11月21日 (火)

きょう生まれの画家

きょう11月21日はルネ・マグリットの誕生日である。
現在、上野の森美術館で回顧展が開催中のサルバドール・ダリと並んで、シュルレアリスムを代表する画家であるマグリットであるが、その作風はダリとは大きく異なっている。

1898年にベルギーで生まれたマグリットは1916年にブリュッセルの美術学校に入学した。
当時の美術界はブラックやピカソ、レジェなどによるキュビスムとボッチオーニやセヴェリーニら未来派の運動を経てダダの運動が各地に芽生えてきた頃である。
マグリットは修業時代には未来派とキュビスムを足して2で割ったような作品を画いていたが、自信の作風を確立できずにいた。
しかし、1922年に起こった2つの出会いが彼を変えたのである。
ひとつは幼なじみであったジョルジェットとの出会いと結婚であり、もうひとつがキリコの作品との出会いであった。

「魔術的写実主義」と称されるキリコの作品(「愛の歌」の複製だったといわれる)がマグリットに与えた影響は非常に大きく、彼独自のシュルレアリスムの世界観を形成するに至った。
すなわち、『日常見慣れた何の変哲もないものが、その日常的環境から切り離され、平常のスケールからも解放されて思いがけない場所に登場することによって、新鮮な驚きを与えようとするものである』(高階秀爾氏)
例えば暖炉の中から噴煙を上げて走り出てくる蒸気機関車や、空中にポッカリと浮遊している巨岩であったり、巨大な鳥の形に切り取られた大空であったりという具合である。

個々の対象物は極めて古典的・写実的に描かれていて、ダリに見られるようなグンニャリとした液体のイメージとは正反対な印象を与える。
マグリットの画から私たちが受ける印象は硬質で乾いたものであり、シュルレアリスムという言葉が連想させる気味の悪さとは全く異質のものである。
むしろ爽やかで明るい印象を与えられる作品が大半を占めるのである。
実際、彼は絵の具で汚れたアトリエで作画することを好まず、常にネクタイを締めて小綺麗な台所の隅で制作していたという。

1926年に画かれた作品「迷える騎手」以来40年に渡って描かれたマグリットの作風は驚くべきことに終生変わることはなかった。
それらは誰が見てもそれがマグリットの作品だとわかるほどの強い個性を備えている。
彼の作品から受ける意外性がその後のポップアートにもたらした影響は極めて大きい。
私の中学校時の美術教師はマグリットよりはよほどダリのほうが好きだったようで、マグリットはアイディアだけで面白みがないといつも言っていた。
写実的な彼の画風も近くで見ればたいして上手くないんだよって言うもんだから、調子に乗ってマグリット風の画を描いたらひどい点を付けられたものである。
(この美術教師が私の学生生活で最良の師であった)

Fakemag

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月17日 (日)

BorderLine

かつてサルバドール・ダリがいった言葉「私は芸術家である。だから私の生み出す物全てが芸術だ」
この詭弁とも取られがちな言い回しはしかしながら絶対的な真実である。

吉田秀和さんが現代詩人の吉田一穂氏について書かれた文章の中にも同様のことが述べられている。
「彼は詩を書くから詩人なのではなくて、『詩人』だから、詩を創るのである」
これはもう生業ということではなく、その人の持っている業というものにほかならない。
たとえば売れない劇団で芝居を続けている役者がいて、当然それだけでは生活ができないので日中は別の仕事に就いているとする。
彼の収入源の大半はその仕事によるものであるとしても、彼自身は自分は「役者」であるというだろう。

「プロ」と「アマチュア」という区分けの場合はまた違った問題となる。
以前に写真家の横木安良夫さんに伺った話の中で、「プロカメラマン」というのは結構な数が存在しているし、例えば町の写真館をされている人とか結婚式場の写真を撮っている人たちまたプロであるとすると、さらに膨大な「プロカメラマン」がいることになるという話題があった。
かように「プロ」という言葉の定義は難しい。
写真の技術ということに限っても、無茶無茶に上手い「アマチュア」もいるし、技術は大したことのない「プロ」もいるが、だからといって両者の間には厳然たる境目があると言われている。
ではそれは何だと聞かれても現時点でははっきりとした答えが見つからない。
世間的な認知度?いや、そんな単純なものではないだろう。

料理については私なりの「プロ」の定義を持っている。
すなわち、常に同じレベルの味を提供できるのが「プロ」の料理人であるということ。
ここで味の良し悪しはさほど問題にならない。
だから一般家庭で食卓に上る料理のほうが全然美味しい場合もあるだろう。
それがいつでも(どこでも)同じレベルで作ることができるかどうかである。
これはずっと前に書いたことがあるが。

さて、話を戻して。
昨日まで普通のサラリーマンをやっていた人が、突然に「きょうから私は作家になる」と宣言したとする。
そして、仕事は続けながら小説を書き出し、見事に賞を取ったとする。
この場合に彼は「作家」なのであろうか?もしそうならいつの時点からサラリーマンから「作家」へとメタモルフォーゼしたのであろうか。
それとも本当は生まれながらの「作家」であったのだが、それが開花するのが遅かっただけなのであろうか?
こういうことが私には良くわからない。

Flow

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月 6日 (土)

あるテーマについての覚え書き

Valery_1ポール・ヴァレリーの言葉
「詩について最終的な、絶対にこれに限るという意味での完成ということはないのであって、普通そう呼ばれているのは、完璧なものにする努力を途中で放棄した結果にほかならない」

絵画や彫刻はもとより、文学作品、建築等が私たちに提示されている状態は完成型としてのものである。
ゴヤの絵を東京の美術館で見てもそれはまぎれもないゴヤの作品である。
(例外的に建築ではガウディの「聖家族教会」や、文学でもムジールの「特性のない男」のように進行中の状態で存在するものもあるが)
しかし音楽作品というのは少々事情が違ってくる。

確かにたとえば楽譜として提示されることはあるが、それはあくまでも演奏を通じてのみでしか多くの人に伝わることはない。
ではレコードやCDとして世に出ているものは完成型ではないのかということになるが、かつての名指揮者であるトスカニーニがベートーヴェンの第九交響曲を5回も録音していることや、ブレンデルが同じピアノソナタを何度も録音し直していることは何だろうということになる。
ひとつの作品をどう演奏するかということは演奏家にとっては永遠のテーマであり、かといって後になるほど良い演奏になっているかどうかということは聞き手の側からは一概に断定できない。
演奏家の解釈自体は年々深まっていくのであろうが、肉体的な能力の衰えということが関わってくるからである。

より身近に考えてみても、ミュージシャンが過去の作品をライブで繰り返し演奏しているのは単なるファンサービスでは片付かない問題を抱えているはずである。
そこにはやはりより良いものへの到達を試みる力が作用していると思うのは考えすぎであろうか。
ライブごとに劇的な変化を見せるDYLANの作品などには、ある種の求道的なものを感じるのであるが。

同様のことは戯曲や古典落語などでも言えることである。
総じて「人間」によって演じられる作品はみな完成型を特定できないものなのだ。
そこにはもとになる作品の良し悪しだけではなく、演じる人間の能力や指向が加味されるわけで、だからこそ様々な解釈が可能となる。
ときどき映画やドラマでも、またライブでも、何を伝えたいのかがこちらにさっぱり分からないことがあるが、それが果たして誰に責任があるのかを断言することは難しい。
もともとの作品が悪いのか、演じる人間に難があるのか、見たり聞いたりする私たちに問題があるのか。

エンターティンメントだから楽しければいいじゃないかという考え方も確かにある。
それはそれで全面的に正しいと思う。
しかし、一旦その場を離れて評価を試みると、どのようなパフォーマンスであれ作品としての質を問われることに変わりはない。
それに耐えうるものが価値のある「芸」として成立するのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年12月18日 (日)

クリムト(覚え書き)

klimtクリムトは「線の画家」といわれる。
その創作のほとんどが女性を描いた作品であるクリムトは、ルーベンスやルノワールらと違って女性のふくよかさやヴォリューム感を重視することはなかった。
クリムトが執拗に描いたものは女性ならではの柔らかな稜線であり輪郭線であった。

1907年に描かれた彼の代表作である『アデーレ・ブロッホ・バウアーの肖像』はモデルの女性の衣装や椅子、背景にびっしりと描き込まれた有機的な紋様に目が行きがちであるが、この絵のためのいくつかの習作デッサンを見るとクリムトがこだわっていたのが面と線による構成であったことがわかる。
ウィーン大学講堂のために描かれた3枚の寓意画『哲学』『医学』『法学』では大胆な面の構成とコラージュ的な手法が見られるが、細部に陰影がつけられているにもかかわらず全体的な印象は平面的で奥行き感が見られない。
これはクリムトがオリエンタルなもの特に日本の浮世絵からインスパイアされた部分が大きく反映しているからであろう。

1900年代初頭の約十年間、クリムトが描いた題材は神話や寓話から取られたものがほとんどであった。
彼にとって女性とは性的対象であることはもちろんだが、一方では偶像崇拝的な対象として大きな意味合いを持っていたのである。
ゼウスによって降り注がれた黄金の滝を浴びながら恍惚の表情を見せる『ダナエ』は非常にエロティックな主題を扱いながら独特の浮遊感のためかそう感じさせられない。
正方形のカンバスのほとんどを占めるダナエは胎児のようなポーズを取り、その身体を支えるものは何もない。
まさに羊水に浮かんでいるかのようであり、見るものに太古の記憶に通ずるイメージを喚起させるのである。
流れるような髪、半開きの唇、乳首に共通するオレンジ色に近い赤は装飾的であり平面的なこの画において最も生命を感じさせる部分である。

1908年の『接吻』はデッサン時において女性は裸体であった。
完成作では男女ともに装飾で埋め尽くされた衣装をまとっているが、二人が一体化したそのシルエットは男根をイメージさせる。
こういった暗示はクリムトにおいていくつかの作品に見られるが、生半可なフロイト的な解釈を受け付けないくらいに芸術としての完成度は高い。
しかし、彼の作品に強く引きつけられる理由のひとつが、こうした具象化された無意識の持つ放射性であることは否定できない。

その風貌から大工か鍛冶屋にしか見えないクリムトだが、『海蛇』や『金魚』のような作品にみられる少女の姿態の優美さは同時期のエゴン・シーレの描く女性のような生々しさが一切感じられない。
私はそんなクリムトにより親近感を覚えるのである。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年12月 4日 (日)

Artistic Aspect

kandinsky往年の名指揮者W.フルトヴェングラーが言った言葉に「ベートーヴェンの音楽が人気があるのは、聴衆がどこから聴いても音楽がどこに向かっているのかが解りやすいからである」というのがある。
音楽が一つの作品として存在するためには”始まり”と”終わり”を持たなければならない。
自然のたとえば森の中で風の音や鳥のさえずりが聞こえていても、それは音楽とは別のものである。
古典的な音楽作品における”ソナタ形式”とか”ロンド形式”といった曲の構成も、その曲がどう始まり、どう展開して、どう終わるかという方法として生み出された。
20世紀にはいってそうした形式感が薄れ、調性自体も崩壊していったのは、かつての古典的な作品の枠を超えていかなければ新しいものを作れなくなってしまったからで、もはや必然的なものである。
その結果、聴衆の理解が困難なものになり、いまだにポピュラリティを獲得できずにいるのだ。

美術においても同じことが言える。
たとえば絵画を鑑賞するということであれば、その作品と対峙して画家がどこから描き始めてどこで描き終えたのかという流れを読み取ることが重要である。
「色がきれい」とか「かわいい」という印象しか持てなければ、それは絵画を理解したことにはならない。
NHK教育とかで時々絵画を紹介するような番組をやっているが、一枚の絵画をある部分から追っていくカメラは、その絵画における流れをほぼ正確になぞっているので感心する。
また、彫刻においても一個の作品から作者の制作過程を読み取っていくことが、作品の理解につながる。
だからロダンの「考える人」も「地獄門」のパーツとして見ていかなければ意味を持たないのである。
建築物でもガウディの作品などでは同様の見方ができるし、サクラダ・ファミリアなど現在進行形の建造物もあるので理解を助けてくれるであろう。

だから芸術を鑑賞する側としては、まずその作品の歴史的な位置を捉えることが第一段階であり、次に個々の作品の流れを読み取ることが必要となる。
ヴァーグナーを知らずにはドビュッシーもシェーンベルクもストラヴィンスキーも、その音楽史的位置を理解することはできないし、カンディンスキーの”抽象的な”絵画からも細心の注意を払って描かれた線や点の流れを理解しなければならないのである。

ある芸術作品を「つまらない」と考えている人は、その作品を理解しようとする努力が欠けているのである。
理解できないからつまらなく、好きではないといった感想を持つのであって、理解したときには熱心な賛美者になるはずである。
何十年、何百年という期間を生き延びてきた芸術作品にはそれに値する価値が存在するのであり、凡庸な鑑賞者はそれらを前にして自分自身が試されるのである。

きょうはクリムトの絵について書こうと思っていたのだけれど、話が逸れてしまった。
またの機会に。

| | コメント (0) | トラックバック (0)