フェルナン・クノップフ
「もしオーブリー(ビアズリー)が描くなら傑作になるだろう。彼が描かないなら、若いベルギー人のだれかに頼もう ー たとえばクノップフだ。私は一風変わったものが欲しい ー 例えば手に手を取って歩む"死"と"罪"の、非常に厳格で中世風のデザインなど・・・」
オスカー・ワイルドは知人に宛てた手紙の中でこのように書いている。
フェルナン・クノップフは1858年9月12日にベルギーのグレンベルゲン=レ=テルモンドで裁判所判事の子として生まれた。
幼少期はブリュージュで過ごし、法律を学ぶためにブリュッセルの大学に入学したが、学業を放棄してブリュッセル・アカデミーにてグザヴィエ・メルリに師事した。
1877年にはパリを訪れてドラクロワの作品に強い感銘を受けると同時に、ギュスターヴ・モローの絵に接し、1879年にはモローのもとに学んでいる。
また、イギリスのロセッティやバーン・ジョーンズらラファエル前派の作品もパリの万国博覧会で知り、世紀末の象徴派やデカダン派の文学にも強い関心を持つようになった。
クノップフの作品はしばしば文学との直接の関連を持っている。
彼が最初に心酔したのはジョルジュ・ローデンバックであり、このベルギーの詩人に感化された『シューマンに聴き入る』はクノップフの初期の主要な作品である。
また、カトリック薔薇十字会の指導者であり創始者であるジョセファン・ペラダンの小説からはいくつかの肖像画と『スフィンクス』などの作品が生まれている。
クノップフ自身もペラダンの思想に共鳴する部分が多かったと思われ、彼が主催する薔薇十字展には毎回のように作品を出品している。
前述のラファエル前派との交流も行われるようになり、代表作のひとつである『私は私自身に扉の鍵をかける』はダンテ・ガブリエル・ロセッティの妹であるクリスティナの書いた詩に由来するものである。
クノップフは1890年にロンドンのハノーヴァー・ギャラリーで初の個展を開いた後もイギリスとは緊密な関係を保っていたようであり、彼自身の彩色彫刻にはイギリスの彫刻家ジョージ・フランプトンの『死の天使』や『神秘の王』に通づるものがある。
そしてそれらは同時にドイツのマックス・クリンガーの作品を喚起させるものである。
のちにグスタフ・クリムトはクノップフの影響を受けたと思われる作品を多く描いているが、1898年にウィーンで開催されたセセッション展にクノップフの作品が展示されたことと無関係ではない。
このように、ほぼ同時期にヨーロッパ各地で見られる世紀末的な特色は地域の壁を感じさせないのは興味深い。
クルス大通りのクノップフの住居にはヒュプノスに捧げられた祭壇が立っており、その両側はティファニー制作の瑠璃ガラスでできていて、キマイラを模った金塗りのブロンズ像に支えられていた。
そこには"ON N'A QUE SOI"(人は自分自身しか持たない)と刻まれていた。
彼の住居に飾られていた古代風の頭部彫刻は『私は私自身に扉の鍵をかける』に見ることができる。
生涯の殆どを独身で過ごしたクノップフであるが、その理由については諸説有り、彼がモデルとして多く描いた実妹マグリットを偏愛していたからだとも言われている。
しかしながら1908年、50歳の時にクノップフはマルトという女性と結婚している。
その結婚生活は僅か3年後には破綻してしまったのである。












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