2008年1月 4日 (金)

フェルナン・クノップフ

「もしオーブリー(ビアズリー)が描くなら傑作になるだろう。彼が描かないなら、若いベルギー人のだれかに頼もう ー たとえばクノップフだ。私は一風変わったものが欲しい ー 例えば手に手を取って歩む"死"と"罪"の、非常に厳格で中世風のデザインなど・・・」
オスカー・ワイルドは知人に宛てた手紙の中でこのように書いている。

フェルナン・クノップフは1858年9月12日にベルギーのグレンベルゲン=レ=テルモンドで裁判所判事の子として生まれた。
幼少期はブリュージュで過ごし、法律を学ぶためにブリュッセルの大学に入学したが、学業を放棄してブリュッセル・アカデミーにてグザヴィエ・メルリに師事した。
1877年にはパリを訪れてドラクロワの作品に強い感銘を受けると同時に、ギュスターヴ・モローの絵に接し、1879年にはモローのもとに学んでいる。
また、イギリスのロセッティやバーン・ジョーンズらラファエル前派の作品もパリの万国博覧会で知り、世紀末の象徴派やデカダン派の文学にも強い関心を持つようになった。

クノップフの作品はしばしば文学との直接の関連を持っている。
彼が最初に心酔したのはジョルジュ・ローデンバックであり、このベルギーの詩人に感化された『シューマンに聴き入る』はクノップフの初期の主要な作品である。
また、カトリック薔薇十字会の指導者であり創始者であるジョセファン・ペラダンの小説からはいくつかの肖像画と『スフィンクス』などの作品が生まれている。
クノップフ自身もペラダンの思想に共鳴する部分が多かったと思われ、彼が主催する薔薇十字展には毎回のように作品を出品している。
前述のラファエル前派との交流も行われるようになり、代表作のひとつである『私は私自身に扉の鍵をかける』はダンテ・ガブリエル・ロセッティの妹であるクリスティナの書いた詩に由来するものである。

クノップフは1890年にロンドンのハノーヴァー・ギャラリーで初の個展を開いた後もイギリスとは緊密な関係を保っていたようであり、彼自身の彩色彫刻にはイギリスの彫刻家ジョージ・フランプトンの『死の天使』や『神秘の王』に通づるものがある。
そしてそれらは同時にドイツのマックス・クリンガーの作品を喚起させるものである。
のちにグスタフ・クリムトはクノップフの影響を受けたと思われる作品を多く描いているが、1898年にウィーンで開催されたセセッション展にクノップフの作品が展示されたことと無関係ではない。
このように、ほぼ同時期にヨーロッパ各地で見られる世紀末的な特色は地域の壁を感じさせないのは興味深い。

クルス大通りのクノップフの住居にはヒュプノスに捧げられた祭壇が立っており、その両側はティファニー制作の瑠璃ガラスでできていて、キマイラを模った金塗りのブロンズ像に支えられていた。
そこには"ON N'A QUE SOI"(人は自分自身しか持たない)と刻まれていた。
彼の住居に飾られていた古代風の頭部彫刻は『私は私自身に扉の鍵をかける』に見ることができる。

生涯の殆どを独身で過ごしたクノップフであるが、その理由については諸説有り、彼がモデルとして多く描いた実妹マグリットを偏愛していたからだとも言われている。
しかしながら1908年、50歳の時にクノップフはマルトという女性と結婚している。
その結婚生活は僅か3年後には破綻してしまったのである。

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2007年12月18日 (火)

Two Walls

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1世紀ローマの博物学者であるプリニウスは、その著作である『博物誌』において絵画の誕生を記している。

ギリシャのコリントスの陶工ブータデスの娘は、自分の恋人が立ち去ろうとする時、何とかして彼の面影を自分のそばに留めておきたいと思った。
そこで娘は、炭を手に持つと、炭火に照らし出された若者の顔が壁の上に落とす影をずっと線でなぞって、その相貌を描き出したという。
それが世界で最初の「肖像画」であった。
それは文字通り「影」の世界であり、「実物」の不在を補い、「実物」の代わりを務めるためのものであった。

ー高階秀樹氏著『20世紀美術』よりー

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2007年10月21日 (日)

レモンと蜜柑

ひとつのレモンがひとつの蜜柑のそばにあると、レモンでも蜜柑でもなくなり、果物となる。
数学者はこの法則を追う。われわれも同じである。

これはピカソと共にキュビスムを生み出したフランスの画家ジョルジュ・ブラックの言葉である。
近代絵画の特質である抽象化の概念がここにある。

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2007年10月 5日 (金)

Only half a century

近代絵画の基礎を築いたと言われているクールベやマネの絵画は、緻密な写実主義を実現すべくカンバスを埋めていった大量の顔料により非常に暗い画になっていた。

彼等を師と仰ぎながらも自然の太陽光の明るさをカンバス上に再現できないものかという試みがモネやピサロなどの印象派によって追求されていった。
つまり印象派が目指したものは絵画をより自然に近づけようとする試みであり、すなわち写実主義をさらに推し進めようとするものであった。

皮肉なことに、モネたちの絵画は結果としては対象となる自然のモティーフからどんどん離れていき、より抽象的なものに近づいていってしまった。
晩年のモネが描いた睡蓮の連作などはまさしく抽象絵画の先駆といえるだろう。
明るい絵画を描くためにカンバス上に描かれたものは明確な対象物ではなく光や靄などが主体となった。
混ぜ合わせることで明るさが失われる顔料は、小さな色の点としてそのままカンバスに並べられ、印象派独特の筆触分割を生み出した。

ゴッホやゴーギャンはその色の点をよりダイナミックにとらえて、それぞれの色の持つ意味を絵画にそのまま持ち込んだのである。
そこからドランやヴラマンクなどのフォーヴィスムは生まれていった。
色彩は対象から分離してそれ自身で画家の情念やイメージを表すようになり、反対にカンバスに描かれる対象物は個性を失っていった。
「絵画を単純化」してしまったマティスを経て、やがては抽象的形態のコンポジションを追求していくカンディンスキーが登場することになる。

そして、一方では印象派の絵画に乏しかった造形的な要素を救い出したのがセザンヌであった。
「自然を円錐、円筒、球体としてとらえること」というセザンヌの言葉は、やがてピカソやブラックによってキュビスムを派生させることになる。
背景をほとんど切り捨て、対象物をいかに造形的にカンバスに定着させるかという探求から始まったキュビスムだが、やがて対象物を平面に還元するような方向に進んでいった。
キュビスムをそのまま推し進め抽象化していった先にはモンドリアンの新造形主義が位置することになる。

ところで印象派の名のもとになったモネの「印象・日の出」が描かれたのが1873年であり、モンドリアンが新造形主義を完成させたのは1920年ごろである。
僅か半世紀の間をおいて描かれたこれらの作品の相違においても、いくつかの段階を考察してみれば十分に理解の範囲にあるのだ。

高階秀爾氏によれば近代美術の特質は「分化」と「強調」にあるという。
これは絵画や彫刻に限らず、音楽においても同じように論じることができると私なりには思っている。
(例えばヴァーグナーの楽劇とウェーンベルンの作品などを比較すれば)
それはまたの機会に持ち越そすことにしよう。

Impression  Mondrian

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2007年8月30日 (木)

予定は未定

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ピカソと比較しうる芸術家と言えばストラヴィンスキーを思い浮かべる。
絵画と音楽というフィールドの違いこそあれ、ピカソは91歳、ストラヴィンスキーは88歳と共に非常な長生きをしたこの2人の芸術家には似通った点が多い。
エトランゼであったこと、様々な形式上の変遷があったこと、晩年には古典に回帰していったこと等々、細かくあげていけば面白いくらいに共通している。
そしてピカソが「アヴィニョンの娘たち」で成し遂げた過去の作品からの驚くべき飛躍と同様の革新性をストラヴィンスキーの「春の祭典」に見たとき、両者の近代芸術史における重要性を改めて認識するのである。
(いずれ時期を見て細かい考察を書いていく予定)

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2007年8月19日 (日)

イヴ・クライン

倖田來未が宣伝したこともあって日本でもちょっと知られるようになったブルーマン・グループだが、TVで初めて見たときにイヴ・クラインを連想してしまった。

イヴ・クラインといえば「モノクロミスム(単色主義)」を提唱したことで知られている。
1928年に生まれ1962年に急死するまでの34年間のうちアーティストとして活動したのはわずか8年足らずであったが、第2次大戦後の美術界に鮮やかな足跡を残した。
当初、柔道家を目指していたクラインは1952年に来日し、講道館で段位を取得するもヨーロッパの柔道連盟からは認められず、挫折を味わった。
その後、絵画に転向したクラインが1955年に開いた個展はカンバスを単色に塗りつぶしたものであった(モノクローム絵画)。

当初は様々な色によるモノクローム絵画を制作していたクラインであったが、やがて彼は青色だけを選び、それに特化した作品の制作だけを行うようになった。
彼が作り出し、特許を取ったインターナショナル・クライン・ブルーはニース生まれのクラインが幼年時代から親しんだ地中海の青と空の青を反映したかのような深い青色である。
彼が行った「青のモノクロミスム展」では、展示作品のみならず、照明やパンフレットに至るまでが青色に統一されていたという。
クラインがここで目指したものは、青色だけを展示空間に拡散させるということであり、作品は壁に展示されているのだがあたかも香りのように空気に溶け出して非物質化されるというものである。

その後、クラインは作品の非物質化を徹底させるために「空虚展」を開いた。
入り口から会場までの通路はインターナショナル・クライン・ブルーで統一されているのだが、実際に会場にはいるとそこには何も展示されていないというものである。
つまり青色は完全に会場内の空間に溶け込んでしまった結果、不可視なものになってしまったということである。
この考え方にはネオ・ダダ的なものも感じられるが、目的ではなく結果として行き着いたというところが違うとも言える。

1960年からは有名な「人体測定」作品の制作が始まった。
これはパフォーマンス・アートでもあり、青色の顔料を塗りつけられたヌードモデルたちがカンバスに身体を押しつけたり、カンバスの前に立たせたモデルに青色の顔料を吹き付けたりして作品を制作すると同時に、クライン自身の作曲した「モノトーン・シンフォニー」という楽曲を楽団に演奏させる(指揮はクラインがとる)というものである。
出来上がった作品は人体の魚拓のようなものであり、また原爆により残った人の影のようでもある。
おそらくはクラインの日本における様々な見聞や体験が反映しているものと思われる。
そしてここでも可視なものと不可視なものがテーマになっているのであった。

International_klein_blue
※インターナショナル・クライン・ブルー(近似色)です。壁紙にどうぞ(・ω・)

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2007年8月14日 (火)

The theory for the picture

Asb
絵画史についていろいろ調べていると、新しい主義が派生するのと同時にそれを裏付ける確固たる理論が生まれていることが興味深い。
ニワトリと卵の話ではないが、作品と理論はどちらが先に生まれたのであろうか。
ことに近代絵画、すなわち印象派以降にその傾向が強いことは、主流であるアカデミーと反目するためにはそれなりの強い裏付けが必要であったためだと思われる。

芸術のなかでも例えば音楽が理論を伴うものであることは理解しやすいが、それに対して絵画はずっと感覚的なものだと思っていた。
しかし画家がカンバスという平面上に色を用いて作り出した自分の作品を通して、何を見るものに伝えたいのかということは、しっかりとした理論のもとにおいて初めて理解されるはずである。
マルセル・デュシャンがモナ・リザに口髭を書き入れて作品として公開するのも、ダダイストとしての裏付けがあったからで、そういうのが何もなければ単なるイタズラ書きになってしまうわけである。

※近いうちにこのテーマはちゃんと書きます(・ω・)

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2007年7月29日 (日)

ピエト・モンドリアン

フランシス・ピカビアが世界初の抽象画といわれる「ゴム」を描いたのが1909年、さらに翌年にはワシリー・カンディンスキーが水彩の抽象画を描いている。
現代絵画の代名詞のように思われている抽象絵画だが、何だかんだいってもそろそろ一世紀が経過しようとしているのだ。
とはいっても私がカンディンスキーの作品を見て幸福な気分に浸れるようになったのはごく数年前からだし、以前は20世紀絵画には少しの興味も持つことができなかったことも事実である。

私が小学生の頃の話だからもう40年位前になるが、下手くそな訳の分からない絵を描くと「ピカソみたいだ」といわれたものである。
今から考えたらとんでもない誤解だが、先日も仕事先の20代の人が「美術展とか好きですがピカソとかはサッパリ分からないですね」などと言っていた。
なんだ私の子供の頃と大差ないのだなと思った。
パブロ・ピカソが偉大な芸術家であることはここで書くまでもないが、キュビスムを経て様々な伝統を破壊してきた彼が描いていたのはあくまでも具象画であった。
例えどれほど変形されていようと、カンバスに描かれているのは画家の目が見た対象物である。

では抽象絵画においてはどうか。
カンバスの上に対象物意外に何を置けばよいかという問題の答えを出すためにカンディンスキーは十数年の歳月を必要とし、一生をその探求のうちに終えたのである。
その手段として様々なアプローチを試み、晩年には偉大なる統合の時代を迎えるのであった。
彼が抽象絵画の父と呼ばれる所以である。
しかし、同じ抽象絵画でもカンディンスキーとは全く異なったジャンルの絵画が存在する。
それがピエト・モンドリアンを中心とする「新造形主義」の絵画である。

モンドリアンの絵画を目にしたのは学生時代に美術の教科書である。
赤・青・黄色と黒白の線と面だけで構成されたその作品は、絵画というよりも単なるデザインにしか思えず、これが美術作品であるとはとても思えなかった。
定規と絵の具さえあれば誰でも同じようなものが描けるはずだから。
サルバドール・ダリがモンドリアンの作品を全く評価しなかったというのも至極当然に思えた。
余談だが、初めてルービック・キューブを見たときの印象は「あ、モンドリアンだ」というものであった。

機会あって、モンドリアンについて少し調べてみた。
ピエト・モンドリアンは1872年生まれであり、つまりヴラマンクやピカソよりも年長である。
20歳くらいから絵画を学びだした彼が抽象画に転向したのは40歳を過ぎてからであり、当時キュビスムが全盛であったパリに移り住んだことが大きなきっかけになったのである。
カンディンスキーやドローネがフォーヴィスムから派生したと考えられているのに対し、モンドリアンの新造形主義を生み出したのはキュビスムであった。
対象物を解体し平面に再構成するキュビスムの方法論から対象物を消し去ったときに、あの幾何学的な構成が生まれたわけである。
1909年頃から始まった「樹」の連作は、年を追うごとに枝と幹の直線だけの描写になり、やがて「+」と「ー」だけの絵画に近づいていった。
1920年にはモンドリアンは「新造形主義」の理論書を刊行し、厳しい禁欲的な作品を制作し続けたのである。

この時期のモンドリアンの制作について高階秀爾氏は次のように記している。
「1920年代の、あの垂直線と水平線だけのモンドリアンの構図は、オブジェを否定し去って、ただそのオブジェの存在を可能ならしめる「場」の基本的な骨組を、イマージュの世界に還元したものにほかならない。それは、いわば二十世紀の新しい透視画法による空間の表現であり、しかも空間のみの表現である」
カンディンスキーは何をカンバスという平面上に置くかを探求したが、モンドリアンは平面自体を追求したのである。
この理論に裏付けされているが故に、彼の作品はまぎれもない芸術となっているのだ。

第二次大戦が始まると、モンドリアンは戦禍を逃れてニューヨークにやって来た。
まもなく70歳になろうとする頃である。
そこで出会った高層建築やジャズなどの音楽が彼に新たな創作エネルギーをもたらした。
モンドリアンが残した最後の作品となった「ブロードウェイ・ブギウギ」には、かつての禁欲さに代わって華やかで楽しいリズムが溢れている。
もちろん画面を構成するのは直線による幾何学的なものであるが、見るものに大都会の全体像を喚起させるものになっている。
画家が目に見えるものだけをカンバスに描いていたら決して表現できないであろう都市の姿はモンドリアンの生み出した「透視画法」によって見事に再現されたのだ。
私はこの絵を見てほんの少しではあるがモンドリアンの何かを理解できたような気がした。

Broadway_boogiewoogie

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2007年4月30日 (月)

雅な宴 Antoine Watteau

17世紀の終わり、音楽史ではちょうどバッハやヘンデルと同時代に、フランスにおいてひとりの天才画家が活躍した。
ジャン・アントワーヌ・ヴァトー(Jean Antoine Watteau)は1684年、フランドルとフランスの国境近くのヴァランシエンヌの町に生まれた。
ちょうどルイ14世(太陽王)の治世が終わろうとしていた時期であり、彼の曽孫にあたるルイ15世へと王位が受け継がれるまでの間をオルレアン公が摂政を務めた時期でもあった。
世紀の変わり目であり、ひとつの大きな時代の変わり目でもあったわけだ。

ヴァトーは「雅な宴」の画家といわれる。
28歳の若さでアカデミーの会員資格を得た彼は、画面の構成力においても、写実的表現力においても並々ならぬ才能を発揮していたが、彼が絵画史において最も優れたひとりに数えられるのはそのためばかりではなかった。
ヴァトーの描いた全ての絵画には繊細な感受性が溢れ、その洗練された色彩感覚は無限の広がりを持っている。
近代の印象派をも彷彿とさせる抒情性に満ちた彼の絵筆は、現実の世界を一篇の詩に変えてしまうほどである。

有名な「シテール島の巡礼」(1717)はヴァトーがアカデミーの入会作品として描いたものである。
実はヴァトーのアカデミー入会はこの作品の5年前から決定済みであったという。
28歳という若さでそれほどの評価を受けるほど、彼の天賦は世間的に知れ渡っていたのである。
しかし世俗的な名誉や地位に無関心であったヴァトーは5年もの間、アカデミーに作品を提出しなかった。
彼の作品は生前から多くの支持を得ており、宮廷やアカデミーの力を借りる必要は全然無かったわけである。

ヴァトーの作品には全てある種の悲哀が感じられる。
たぐいなき筆致で描かれた彼の絵画はほんとうに優美で典雅なものであるけれど、それが永遠に続くものではないことも見るものに感じさせる。
つかの間の美しさこそが彼の描きたかったテーマであり、彼の描いた人物の表情が、その優しい情景にときにそぐわないほどに厳しく冷たいものを窺わせるのはそのためなのであろう。
ヴァトーが好んで描いた演劇をテーマとした舞台画などにも、作り物であるがゆえの現実ばなれした美しさと、はかなさが同居しているのである。

生涯、病身であったヴァトーは33歳でアカデミーに入会した後、わずか4年で夭折した。
彼が生み出した「雅宴画」というジャンルは、その後何人かの後継者を輩出したが、誰もヴァトーのようには描けなかった。
17世紀と18世紀の変わり目を流星のように駆け抜けたヴァトーの生涯もまた、はかなく美しい彼の画風のままであった。

Assemblee

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2007年4月14日 (土)

Primavera

四月は残酷極まる月だ
リラの花を死んだ土から生み出し
追憶に欲情をかきまぜたり
春の雨で鈍重な草根をふるい起すのだ

T.S.エリオット『The Waste Land』より

新学期が始まったり、年度が替わったりして自分のまわりの環境が変化を余儀なくさせられるから、四月は精神的にきつい月である。
学生の頃はクラス替えがあったり、担任が代わったりというのが結構苦痛であった。
そういうのが全然平気な奴もいるのだが、私はダメだな。
環境に馴染むまで早くても2ヶ月、かかるときは半年くらいを要してしまう。
ましてや新入生とかの場合だと登校拒否こそしなかったが、しばしば吐き気を催すことがあった。
入学してからその学校に馴染むためにほとんど最初の1年を使いきってしまうために、中学や高校で楽しく過ごしたのは2年間ずつみたいなものである。
かように環境が変わることに弱い自分であるが、その一方では新しい世界を望む気持ちも強くて、相反する思いを抱えたまま現在に至っている。

高階秀爾氏の『ルネッサンスの光と闇』のなかにボッティチェルリの『春』についての考察があり、この絵画において一番左に位置するマーキュリーが「死の使者」であることから、春は生命が誕生する一方で死んでいくものが同時に存在することが言及されている。
それはまた、死と復活という構図を持つことからキリストとの関連があり、それを裏付けるようにキリストの復活を主題として描かれた数多くの絵画において、その背景に冬から春への移り変わりが描かれていることが述べられている。

「復活の祭りは春の祭りと同じ意味を持つものである。少なくともそれらは、まず『死』の世界があってしかる後に甦りがあるということで共通している。とすればボッティチェルリの《春》において、中央のヴィーナスを中心とする華やかなグループが、左端のマーキュリーによって先導されていること、そして、マーキュリーが、ここでは『死の使者』として登場していることも、十分にうなずけることであろう。つまりこの『春』は、死の後に続く甦りの『春』なのである。」(同書より)

人の子として死んだキリストは神の子として甦った。
この春に自分の中でいままでの何がなくなり、何が新たな形を持って生まれていくのかはまだ分からないが、ともかくしっかりと受け止めていかなければと思う。
ちょっとしんどいかもしれないが、そのためにGWがあるのだろう。

Primavera

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