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2007年3月 4日 (日)

Amedeo Modigliani

20世紀のはじめ、パリが芸術の都として世界中の芸術家を強力な磁力で引きつけていた時期があった。
シャガールをはじめ、スーティンやモンドリアン、キスリング、藤田嗣治等々、美術史に名を残す錚々たる芸術家たちがこの都市に集まってきていた。
彼らを総称して「エコール・ド・パリ」と呼ぶようになったのは後のことであるが、その中のひとりにイタリアからやってきたアメデオ・モディリアーニがいた。

アメデオ・モディリアーニ(1884−1920)のドラマティックな生涯はジェラール・フィリップ主演の映画『モンパルナスの灯』(1958)やアンディ・ガルシア主演の映画『モディリアーニ真実の愛』(2004)で知られている。
イタリア系ユダヤ人としてリヴォルノに生まれたモディリアーニは、フィレンツェやヴェネツィアで学んだ後に1906年パリにやって来た。
当初、彼が住み着いたのはモンマルトルにあった通称「洗濯船」という長屋のような住居であった。
かつてはピカソも住んだという「洗濯船」は当時、画家や彫刻家、詩人など貧しい芸術家たちの住み家となっていた。

「洗濯船」に住む若い芸術家たちは、ピカソを除いてはみな大酒飲みであったという。
モディリアーニもその例外ではなく、つねに酩酊状態であった。
また彼は非常な好男子であったために、多くの女性から言い寄られたと言われている。

パリに住み着いた当初、モディリアーニが師事したのはルーマニア出身の彫刻家ブランクーシ(1876−1957)であった。
1909年に知り合うと、モディリアーニは数年間は直彫りの彫像を作り続けた。
もともとは彫刻家志望であった彼は、ブランクーシから黒人彫刻の影響を受けた。
ついでに書けば、このブランクーシは生涯に渡って直彫りにこだわった彫刻家であり、その才能を高く買ったロダンから弟子入りの話があった際にも、塑像彫刻を基とするロダンとは相容れない部分を感じたために断っている。
ブランクーシにとっては彫刻と削り取って成すものであり、だんだんと肉付けをしていく塑像彫刻は認めがたいものであったのだ。

1913年になると、モディリアーニはモンパルナスに移り住み、本格的に画家に転向する。
彫刻家になるには彼の体力が弱すぎたこともあったが、何よりも彼の経済状態が、初期投資の大きい彫刻を断念させた。
なかなか売れない彫刻よりも絵画のほうが手早く金に変えられたからである。
しかし彼が彫刻から学んだものは、その絵画に独自の特色をもたらしている。
モディリアーニの絵画の対象は、ほとんどが肖像と裸婦であり、背景や余計な装飾は徹底して省かれている。
そしてその肖像は細長い顔と長い首が特徴的だが、これはまさに黒人彫刻から学んだ表現である。
さらに肖像、裸婦とも造形性にすぐれていて、シンプルな画面には空虚な部分が少しもない。
モディリアーニが使った色の数は決して多くはないが、極めてデリケートな配色が描かれた人物に血を通わせる。

1917年にモディリアーニは後の妻であるジャンヌと知り合った。
翌年、女の子が生まれたが、彼の健康は急速に衰えていった。
ひどい貧困と大量の飲酒、薬物が彼の身体をボロボロにしていたのである。
1920年の1月、寒波がパリを襲った日に倒れたモディリアーニは病院に運ばれたが、その翌日に息を引き取った。
酒と詩を愛し、多くの女性や詩人に愛された芸術家は36歳で命を終えた。
モンパルナスの仲間たちが彼の葬列をしている最中に、妻のジャンヌはアパートの6階から飛び降りて彼の後を追ったのであった。

Modigliani

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コメント

モディリアーニに興味があり、とても参考になりました。この3月にパリ行きを計画しています。妻のジャンヌが飛び降りたアパートを訪ねてみたいのですが、現存しているのでしょうか。ご存じでしたら御教示ください。

投稿: 佐伯 晋 | 2011年1月25日 (火) 00時04分

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