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2005年11月21日 (月)

SYMPHONIE FANTASTIQUE

SABBAT私が敬愛する吉田秀和氏のエッセーの中にパリについて書かれたこんな一節がある。
<このまちには「規則は規則。だが、それはあくまで自分たちの便宜のためにある。それをいつどう守るかは、自分で判断することだ。やりそこなったら、それはおれの責任。余計な干渉はしてほしくない」という精神のながれているのがわかる>
フランスの文化がヨーロッパの他の国ともアメリカとも全く異質なのには、「自由」にたいするこうした意識があるからだろう。

ルイ・エクトル・ベルリオーズは19世紀前半の作曲家である。
アレクサンドル・デュマやヴィクトル・ユーゴーらと親交があり、フランスのロマン派芸術を代表する彼の代表作である『幻想交響曲』は今でもオーケストラのレパートリーにあがる名曲である。
ベルリオーズは管弦楽法に長けており、絵画的とも称されるほどの描写力は「標題音楽」の確立に大きな力となった。
ずば抜けた音楽性と燃えるような情熱はまさにロマン派の面目躍如というところだが、一方では作曲技法に不器用なところがあり(特に和声)、作品にはムラも多い。

私がはじめてベルリオーズを聞いたのはシャルル・ミンシュ指揮、ボストン交響楽団による『幻想交響曲』であった。
たしか1969年で、同じくベルリオーズ作曲の序曲『ローマの謝肉祭』が同じ盤に収録されていた。
ミンシュはその前年にアメリカで巡演中に客死していて、追悼記念盤だったように記憶している。
これは素晴らしいレコードだった。

『幻想交響曲』には副題として「ある芸術家の生活のエピソード」とある。
失恋の痛手を癒すためにアヘンを服用した1人の芸術家が見たさまざまな幻覚が色彩感覚豊かに描かれている。(もちろん芸術家とはベルリオーズ自身を指すのだが)
この交響曲は5つの楽章を持ち、それぞれに標題がつけられている。
また、全曲を通して固定観念と呼ばれる旋律が何度も現れるのだが、これは1人の女性を表しており、彼女が現れる場面に応じて様々な形を取って演奏される。
第1楽章「夢・情熱」の導入部の儚くやるせない響きからこの交響曲は始まる。
狂おしい情熱の中で現れる彼女の旋律。
続く第2楽章では一転して場面は「舞踏会」になる。
優美なワルツが流れる中、その踊りの中に一瞬彼女が見えたのであろうか、しかしすぐにかき消されてしまい目くるめくワルツは続くのであった。
寂しい「田園の風景」が描かれる第3楽章。
イングリッシュ・ホルンとオーボエとのもの悲しい掛け合いがあり、遠くに雷がこだまする。
第4楽章では主人公は処刑を命じられ、「断頭台への行進」がはじまる。
処刑間際に頭をよぎる彼女の思い出はギロチンによって断ち切られるのであった。
主人公は地獄に堕ちたのであろうか?
第5楽章「サバトの夜の夢」は地獄のロンドである。
ここで現れる彼女の姿はもはや優美なものではなく、グロテスクで滑稽な旋律で演奏される。
グレゴリオ聖歌の「怒りの日」の旋律が効果的に使われ、阿鼻叫喚の様相の中でこの曲は幕を閉じる。

音楽が何かを表現しようとするときにベルリオーズが取った「標題音楽」という手法は聴き手の理解を助ける一手段である。
もちろんそのためにイマジネーションを限定してしまうというマイナス面もあるが、こと『幻想交響曲』においては音楽が勝っていることもあって優れた作品になっている。
ミンシュの指揮は同国人であるベルリオーズやラヴェルの作品では艶やかで色彩あふれる素晴らしさを発揮している。
名盤の誉れ高いオルケストル・ド・パリとの『幻想交響曲』よりも、私はボストン交響楽団とのレコードのほうが好みである。

ベルリオーズ以降、フランスではクロード・ドビュッシー、モーリス・ラヴェル、エリック・サティ等の個性的な作曲家たちが活躍した。
ドイツ・オーストリア系の伝統ある音楽家たちとは異なる流れがここ「自由」の国では存在したのである。

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