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2005年11月 8日 (火)

夜の歌

noマーラーの第7交響曲を聴いたのは十歳の頃で、ベルナルト・ハイティンク指揮、アムステルダム・コンセルトヘボウ交響楽団によるものであった。
何でこの曲を選んだのかははっきりと覚えていないが、LP2枚組でたっぷりとした曲に浸りたかったからかもしれないし、あるいは帯に印刷されたマーラーの神経質そうな横顔が気になったからかもしれない。

クラシックのコレクションはたいてい同じ曲を異なる演奏者によって複数枚所有することになる。
例えば交響曲ならばそれぞれの指揮者や管弦楽団によって異なる解釈や音色があるし、同じ指揮者によるものでも録音の時期によって異なるテンポを取ったりするからタチが悪い。
それとは別に最初に聞いた印象は聴き手にいつまでもこびりついているものだから、それ以降に聞く演奏はどうしても最初のものと比較されることになる。
ああ、こういう解釈も有りだなと思うケースもあるし、全く受け付けない場合もあるが、それが演奏の優劣となるかといえば別問題である。

ともかく、私は最初に聞いた第7交響曲にすっかり魅了されてしまった。
コンセルトヘボウ交響楽団は木管の音色が優しく、逆に金管はややこもったような控えめな音色が特徴であった。
また弦楽器はアンサンブル重視で、際だつ技術は無いものの、耳を刺激するようなことはない。
この録音時、ハイティンクはまだ若く、いわば熟練のキャッチャーを相手に投球する新人投手のようであった。

この曲はマーラーの中期を構成する純粋器楽の交響曲(第5番・第6番・第7番)の最後のものである。
全5楽章からなるこの曲は、はじめ中間の3つの楽章が作られた後に両端の楽章が付け足された。
特徴づけているのはその最初に作られた3つの楽章でナハトムジーク・スケルツォ・ナハトムジークという順番になっている。
(ナハトムジークは「夜曲(Night Music)」である)
このためこの交響曲は別名「夜の歌」ともよばれている。
はじめのナハトムジークは森の中を行進するような情景が、あとの曲では夜の恋人たちの語らいのような情景が描かれている。
特に、ギターの音色も優しく響く第4楽章の夜曲は室内楽的な管弦楽の処理がされていて魅力的な音楽である。
「影のように」と指示された真ん中のスケルツォは不思議な曲だ。
この曲をラヴェルの「ラ・ヴァルス」と比較するひともいるが、遥かに洗練された楽曲の構成と精緻なオーケストレーションはマーラーの全作曲中でも随一のものである。

マーラーが最も苦労したと言われる第1楽章は、作曲に疲れてボートに乗ったマーラーがオールを漕いだときにひらめいたというリズムから始まる。
突如として鳴り響くテナー・ホルンが第1主題を導いて、暗く激しい行進曲が繰り広げられる。
飛翔するような第2主題とのあからさまな明暗の対比を織り交ぜながら20分を超えるこの楽章はエネルギーを失うことなく続く。
夜曲をはさんでの第5楽章は太鼓の連打から始まる。
このフィナーレはリズムの饗宴でありここぞとばかりに金管楽器が爆発する。
脳天気なロンドは途中第1楽章の再現をはさむが音の洪水でそれを飲み込んでしまうのである。
第7交響曲の評価はこの終楽章をどう感じるかで大きく異なるが、私は何ら抵抗無く感動した。

ハイティンクの指揮で聴いた後、ずいぶん経ってからクラウディオ・アバド(シカゴ交響楽団)や、ゲオルグ・ショルティ(同じくシカゴ交響楽団)、サー・ジョン・バルビローリ(ハルレ管弦楽団)等で聴いてみた。
それぞれ立派な演奏だった。
中でもショルティの指揮はシカゴ交響楽団の優秀さとも相まって、すばらしい第7交響曲であった。
しかし私の頭の中の音やテンポとは何かが違っていて、少なからず違和感を覚えたことも確かであった。

音楽の不思議は尽きないな。

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