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2005年9月25日 (日)

またもや第九交響曲

buru第九交響曲について書くのはこれで3回目である。
過去にマーラーの第九交響曲とシューベルトの第九交響曲を取り上げた。
今回はブルックナーである。

アントン・ブルックナーはその72年間の生涯を音楽と教会に費やした。
彼の業績は十曲の交響曲と『テ・デウム』『ホ短調ミサ』等の声楽曲、数曲の室内楽曲に限られている。
その中心を占めるのはもちろん交響曲である。

私がブルックナーの交響曲を聴きだしたのは20代後半である。
ベートーベンやシューベルト、マーラー、ストラビンスキーなどは小学生の時から親しんでいたのだが、ブルックナーだけは敬遠してきた。
音楽はまず耳で聞き、身体で感じるのが順序だと信じてきた。
事実、マーラーの長大な交響曲なども管弦楽の大きな波に身を委ねているとその本質に直に触れられたように感じる。
ある程度の全体像を感じた後に解説書等で楽曲の特性や技法を学ぶとすらすらと理解できた。
そうした聴き方をずっとしてきた耳にはブルックナーの音楽は難敵であった。

ブルックナーには前述したように十曲の交響曲がある。
第一〜第九の九曲と第0番(ヌルテ)である。
どれも長大な曲ばかりであり、特に第八交響曲などは90分近い大曲である。
ブルックナーの特徴として、曲のはじまりかたと深い安らぎを与える緩徐楽章、反復の多いこと(特にスケルツォ)、最終楽章の処理の問題があげられる。
彼の多くの楽曲にみられる構成力の欠如が聞き手に身体ではなく頭での理解を要求し、それがかなりの時間の集中力を必要とするのである。
これがなかなか馴染めなかった理由だろう。

さて第九交響曲はあたかもベートーベンの第九のようにはじまる。
星雲状の弱音のトレモロの中から主題が立ち上がってくるところは酷似している。
この開始が「ブルックナー開始」といわれる彼の特徴になっているのである。
巨大な主題が出現するが、突然の停止。
次にまったく別の音の塊が現れてやがて全てを飲み込んでゆっくりと前進を始めるのである。
聞き手は主題が果たしてどこに向かっていくのであろうかを慎重に聞き分けることを強いられる。
私はこの曲を聴いていると宇宙的な感覚に襲われる。
大きくゆったりとした時の流れと、その空間に繰り広げられる様々な星の瞬きを感じることができる。

続く第二楽章のスケルツォは妖精の踊りのような素敵な音楽である。
でもここでの妖精はきちんと礼装をしているかのように感じる。
ブルックナーのスケルツォはとかく田舎っぽさが感じられる曲が多いのだが、この曲では非常に洗練されたものになっている。
そして第三楽章のアダージョ。
本来であればこの後に終楽章が書かれるはずであったが、ブルックナーは完成させることなく他界した。
この交響曲は未完成で終わったのである。
結果的に終楽章となったアダージョは天国的であり、ブルックナーの書いた最も美しい音楽となった。
吉田秀和氏はこの楽章に「絶望とすれすれ」の凶暴性とそれにたいする慰謝の声が聞こえると書かれている。
私はマーラーの(同じく未完成の)第十交響曲のアダージョに通じるロマン派の崩壊をこの楽章に感じた。
自ら宗教的な音楽家を自認していたブルックナーの辿り着いたところがこの楽章の表現する世界であった。

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