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迷い道

maze方向音痴である。
それもかなりひどい部類に入る。

例えばデパートに入る。
正面から入って店内を見て回ってからまた外に出ると知らない景色が待ち受けている。
裏に出てしまったのである。
本人は入ってきたところから出たつもりなのでうろたえてしまう。
まあ大きい店舗だと入り口がいくつもあるからしょうがないかもしれない。

ところが入り口が一つのコンビニでもだめなときがある。
通りを歩いていて右手にあるコンビニに入ったとする。
買い物をしてさらに先に行こうとしているのだが、店を出てからまた左の方に歩いてしまう。
いつのまにかもとの場所に戻っていたりしてびっくりしたりする。
時間の無駄である。

電車に乗るときにホームで待っていると、たいてい思っていたのと逆の方向から列車が来るので面食らう。
通過車両とかあるといきなり背後からやってくるので肝を冷やすこともしばしば。
とても心臓に悪い。

知っている場所に知っている道を使って行くときは間違えない(あたりまえか)。
なんとなく歩いていると必ず思った場所に行けない。
行けてもすごい遠回りとかしてしまう。
最近では約束の場所に行く際は縮尺を替えた何通りかの地図を持参するようにしている。
ほんとうに不便である。

はるか昔、就職の面接を受けに某企業を訪問したときのこと。
簡単な道だからと思って地図を持たずに行ったら全然見つからず、何人かの人に道を聞きながらやっとこ辿り着いたときには約束の時間ギリギリだった。
予定では数十分前に余裕で到着するはずだったのに。
しかも走り回ったから汗びっしょりだったし。

一種の病気なのだろうか。
途中に花屋があったとか、変な字体の看板があったとか、「犬」のシールが何枚貼ってあったとかつまらないことは覚えてたりするのだけれど。
オフ会があったときに会場の店の出口がわからず困ったこともあった。
駅から帰宅するときにきょうは道を変えてみようと思って帰れなくなり、また駅に戻っていつもの道を帰ったこともある。

こんなひどい方向音痴な私であるが...
ヴェネチアの迷路のような夜道では、地図も何もないのにいつもちゃんと宿に帰ることができたのはなぜだろうか。

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ぼくときみ

IMG_2279世の中には3種類の人しかいない。
ぼくときみとそれ以外の人たち。

ぼくとそれ以外の人たちの違いは明らかである。
この両者は各々独立した存在であり、両者の間には埋められない隙間がある。
だからぼくは彼らや彼女たちを客観的な立場から見ることができるし、語ることもできる。

ぼくときみの間は複雑な関係である。
なぜならきみはぼくの一部分であり、ときには全部分を占めることもあるから。
ぼくがきみに話しかけることはぼく自身に話しかけることかもしれない。
でもぼくは決してきみではない。

ひとは生まれたとき白紙の状態であるという。
善きことを学べばその裏側には同時に悪しきことも学んでいく。
生まれながらにして二つの人格が形成されていくから「天使と悪魔」も「ジキルとハイド」も誰の心にも共存するのである。
ぼくのなかにもうひとりのぼくがいるわけで、それが目に見える形となっているのがきみかもしれない。

だからいつ"you"が"he"や"she"に変わるかもしれないわけで、そのとたんにきみは他者になってしまう。
きみがきみでいられるのはあくまでもぼくの立場からみたときだけだ。
ぼくは永遠にきみを探し求めるだろう。
なぜならばきみはぼくの片割れだから。

”きみを捜すよ、旧ホノルルで、
 サンフランシスコで、アシュタビューラで
 きみがぼくのもとを去ってしまうことはわかっているけど
 高い空の中にきみを捜すよ、
 草の中に、愛するものの中に
 きみが行ってしまうと ぼくはさびしくなるよ”
 

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若大将シリーズ

waka加山雄三の若大将シリーズをリアルタイムで見ることができたのは「リオの若大将」からで、当時まだ小学校の4年生だった私にはそれほど魅力を感じさせてくれなかった。
でも3歳下の妹には強い印象を与えたようで、好きな芸能人はと聞かれると「加山雄三」の名を言うようになった。
同時期のシリーズものではクレイジー・キャッツの(特に植木等の無責任シリーズ)ものが好きで、劇場で見たものは少なかったけど、大晦日近くに深夜テレビで何本もやっているのを面白く見たものである。

私が高校生になった頃に、何故か若大将ブームが再燃した。
渋谷や飯田橋の劇場で「若大将まつり」と称して3本立て(またはオールナイトで5〜6本立て)を頻繁にやっていた。
「大学の若大将」や「エレキの若大将」(若い内田裕也が笑える)その他おおかたの作品はこのときにまとめてみることが出来た。
劇場はどこも結構混んでいて、3本立てを立ち見で見るなんて当たり前であった。

加山雄三の演じるところの「田沼雄一」は60年代の若者の理想を叶えたキャラクターであった。
スポーツ万能で音楽(歌・ギター)の才能もあり恋愛にもさわやかに全力でぶつかっていく.....
しかも家庭はそこそこ裕福であり、育ちの良さから決して野卑な言葉は使わない。
実際の加山雄三にもおおいに重なる部分があり、若大将=加山雄三という図式は不動のものになっている。
後年、事業で失敗した加山雄三の姿をみて「どうした若大将!」と思った人は多いだろう。

「和歌大将」というのを考えたことがある。
幼少から歌心を会得した雄一はある日ちょっと悲しげな面持ちの女性である澄子に出会う。
”花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに”
澄子の魅力に惹かれた雄一はひとり部屋で物思いにふける。
”逢見ての 後の心に くらぶれば 昔は物を 思はざりけり”
”筑波嶺の みねより落つる みなの川 戀ぞつもりて 淵となりぬる”
二人の仲はやがて周囲の知るところとなり、
”忍ぶれど 色に出でにけり わが戀は 物や思ふと 人の問ふまで”
”戀すてふ わが名はまだき たちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか”
やがて恋のライバルである新次郎が現れ、
”君がため 惜しからざりし 命さへ ながくもがなと 思ひけるかな”
澄子の心を射止めようと二人はかるた大会で激突するのであった....

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大人げない

noguchi「大人」の定義は元々は元服の済んだ人のことであるから、年齢にすれば12〜16歳といったところである。
まあ今では全然通用しない定義だな(乗り物の運賃とかは別として)。
また、じゅうぶんに成長した人という意味での「大人」ということであれば、身体は成長したけど精神面は?あるいはその逆のケースの人はやはり「大人」とは言い難い。
でもそう言っちゃうとはたして日本人の何%が「大人」と言えるのだろうか。

「大人げない」などと言う。
本来は大人らしくないということで、転じていい年をしてつまらないことにむきになったりしてばかげているという意味で使う。
大人はつまらないことに関わっちゃダメなのか?
「大人しい」だって、大人らしいということから穏やかで素直であるという意味で使われている。
素直な大人って何だ?振り込めサギとかの被害者みたいなものかな?

二十歳をもって大人と認めるのが一般的なのだろうか。
法的にはそうかもしれないが毎年のように馬鹿が暴れる「成人式」を見る限りではまだまだダメみたい。
(ちなみに成人式には前々から疑問があって、なんでわざわざトラブルの起こりやすい式典をやるのか理解に苦しむ。お前は成人したよっていう内容のハガキでも出せば済むんじゃないか?)
兵役がある国であればもう少し定義が明確になるのかもしれないけど、平和ニッポンでは難しいかな。
徴兵を待望するわけではさらさらないけど.....
ちなみにアメリカでは法的な成人は18歳だとか。

社会的なコミュニケーションが他者に依存する部分を含むことで成り立っている日本では、精神的に大人である人はむしろ変わり者扱いされることが多い。
乱暴に言ってしまえば、それがいわゆる「甘え」であり「村社会」である。
「大人」になりきらない方が暮らしやすいというのもなんだか情けないじゃない。

小さい頃、「おまえはお兄ちゃんだからちゃんとしなきゃダメでしょ」とか「お姉ちゃんだから片づけなさい」とか言われたでしょう。
結局、日本では「大人」なんてその延長にすぎないのではないかと思う。
他人から「大人のくせに」と言われることで成り立つ「大人」であって、自発的ではない。
それでいいのかな?

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不調かな

china梅雨にはいるまではもう少し時間があるみたいで、ここのところしのぎやすい毎日である。
日中は日差しもそこそこ強くて(紫外線はうんと強くて)暑いくらいだけど、夕方からは急速に冷えてくる。
湿度が低いためだろうけど、油断していると結構こたえる。
膝が痛くなったりするし、肋間神経痛が出たりするのでやっかいな季節でもある。
(とほほ)

仕事が低調である。
GW明けの売上がちっとも伸びない。
一応アパレル資材関係だけど中国生産の割合が多い現在では商社の発注に左右されるのがつらいところ。
決算の時期とかだと生産を抑え気味になるから、もろに影響を受ける。
市場のニーズとはズレがあるけれどどうしようもない。
ファッションリーダーの不在も大きい。
スーパー小学生とか中学生はいても、少子化のせいで縮小している市場だし。
一番購買力のある世代にスーパー中年とかスーパー老人が現れてくれないとだめだな。

へんなニュースばかり。
鯨が溺れて死んだり、象が定食屋に入ったり、パンダが立ったり。
どうぶつ奇想天外やからくりテレビみたいなのばっかし。
中国も韓国も日本も指導者レベルでは好きなことを言っているし。
どこも自国の国民に対するスタンドプレーっぽいのがいやらしいけど。
ほんとうは内政をしっかりやらなくちゃ困るのに。

人間が四つんばいになったってニュースにはならない。
記憶をなくしてピアノでも弾けなくちゃね。
変な世の中だな。

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PowerBookの受難

pbG3会社で仕事用に使っているPowerBookの調子が悪くなった。
機種は1999年モデルのPowerBookG3(BRONZE)である。
いま自宅に連れ帰って介護中なのだが....

この機種の前はPowerBook5300csというのを使っていた。
知る人ぞ知る欠陥機種である。
重い・遅い・ヒンジが弱い等々の不具合を乗り越えながら使っていたのだが、限界に来たので買い換えたのがPowerBookG3である。
貧乏なので333MHzを購入、でもDVDも見たかったからBTOで付けてもらった。
その後、キーボードを(E)に変更し、ハードディスクを30GBに換装しメモリも512MBに増設。
さらにPowerLogix社のBlueChipLSG4で待望のG4化となった。
現在はシステムをOSX10.2.8にして(Pantherはダメみたいなので)会社のディスク上で活躍している。

先日もバッテリーが死んだので秋葉館で新品を購入して、あと1年は頑張ってもらおうと思っていたのに。
(G4にしてからバッテリーの持ちは非常に悪くなった)
薄いけどでかい座布団のような形状といい、表も裏も優れたデザインの黒のボディは大のお気に入りなので、なんとか復活させるべく努力しているのだが....
自宅のACアダプターが不調でバッテリーが0%になってしまい、修復中にスリープ状態になってしまった(泣)
あとは明日、会社に持って行ってから頑張らねば。

そんなわけで修理しながらこの文章を書いていたら、ここまでですでに3時間近く経過している。
なにをやっているんだか....
このPowerBookはレガシー・インターフェース(SCSI)を備えた最後の機種であり、またUSBを備えた最初のノートブックでもあった。
パソコンに7年はきびしい年月ではあるが、苦楽を共にした愛機であるからなんとか直すぞ。

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反省しきり

ham3月半ばからこのブログをはじめて、きょうで67回目。
とりあえずの目標は100回まで毎日何かを書くということなので、なんとか3分の2はクリアしたみたい。
いつもつまらない話題ばかりですみません。

でも、毎日夕食後に書いているのだけれどもいろいろ思い知らされることが多くて。
自分の趣味や嗜好が結構偏っているものだということを実感している。
何十年も前に興味を持った事柄もちょっと距離を置いていたら驚くほど風化していたり。
勉強したつもりになっていた事も実生活で使わないものはどんどん忘れてしまっているし。

とかく毎日の細事にかまけて、反復したり温めたりすることに疎かになってしまっているのは事実。
周りに刺激を持ちづらい環境にいることに甘えて、努力を怠っていたことを実感した次第。
歳をとると時間の経過が早くって....と思うのは、単に密度の薄い毎日を過ごしているからに過ぎないわけで、
いやほんとうに勉強しなくちゃな。

孔子が十五歳で学問に志して、三十歳で一本立ちしたあとでも勉強は継続していたことを忘れちゃいけない。
人間は一本の葦にすぎないけど、それは考える葦であることを忘れちゃいけない。
先達の残した格言もその全てが真理とはいえないけれど、真理も多く含まれていることは事実である。
他人を非難するにはもっと自分に厳しくなければいけない。

すばらしい音楽や絵画、本当に美味しい料理や素敵な人々について書くのはほんとうに難しい。
自分の乏しいボキャブラリーをいくら駆使したところで、その本質をどこまで誰かに伝えることができるのか。
比較するという手段で逃げることも出来るけれど、底の浅さを露呈するだけだし。
まあいくら水を濁らせてみたところで底が浅いのは事実だし.....

そういう生き方をして来ちゃったんだからしょうがないだろうって開き直るにはまだ早いな。
クソ爺になるまでもうちょっとは時間があるから。
頭と身体が動くうちは頑張ってみようと思ったりして。
反省・反省・反省。

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読書について

book読書に目覚めたのはいつごろだったか。

とにかく小学校の頃はほとんど本を読まなかった。
マンガとか絵本を除くと、最初に読んだ本は「偉人ものがたり」というやつでエジソンとか野口英世とかの生涯が簡単に書かれていたやつだった。
想像はつくと思うけどおきまりの教訓じみた内容で、ちっとも面白くなかった。
そのあと何を読んだか.....「パンドラの箱」だっけ?
前にも書いたけど、文章の面白さを教えてくれたのはレコードの楽曲解説だったから、図書館とかは無縁の子供だった。
ようやく5年生の終わり頃に「吾輩は猫である」を子供向きにやさしく書き直した本を読んで、夏目漱石に少し興味を持った。
(でもその本の解説はひどいもので「吾輩」という名の猫が云々....と書いてあるのを見てびっくりした。名前じゃないだろ!)

中学校で江戸川乱歩にはまる。
角川から出ていた文庫を全部読み、春陽文庫のシリーズも読んだけど、さすがに「怪人二十面相」等の子供向きの作品はつらくて。
乱歩の作品では「孤島の鬼」がいちばん好きで、いまでも最高作だと思っている。
これを最初に読んだときのわくわくした感じはその後読書で味わったことがないものだった。
乱歩がらみで横溝正史や夢野久作、小栗虫太郎等を読んでいった。
横溝正史の世界は乱歩とは正反対の純日本的なドロドロ感があって、一通りは読んだもののなんかついて行けない感じがあった。
夢野久作の自己満足的な作風のほうがよっぽどおもしろかった。

推理ものは面白かった。
アガサ・クリスティやガストン・ルルーも日本語訳はちょっと問題があったけど、それなりにおもしろく読んだ。
コナン・ドイルのシャーロック・ホームズものは英国的なものの考え方も含めて非常に興味深かった。
ホームズとワトスンのキャラクターはいまでもイギリス人のイメージとして私の中では定着している。
そのころ放課後帰宅途中は毎日本屋に立ち寄っていた。
中学生の乏しい小遣いでは何冊も本を買うことが出来なかったから、立ち読みで済ます作品も多かった。
(本を読む速さはこの頃すごく鍛えられたっけ)
でもあんまり立ち読みばかりじゃ本屋が気の毒なので、岩波文庫や新潮文庫のいちばん薄そうなやつとかを買って帰った。

そんな中に三島由紀夫とかヘミングウェイとかキルケゴールとかあって、読めばそっちの世界の豊穣さに魅せられた。
辻邦生とか倉橋由美子とかを読んでヨーロッパへの憧れを持ったりもした。
なんかいろいろ雑多なジャンルの本を濫読していけばそのうちに自分なりの方向性がでるかもしれないって思っていたけど、なんのことはない自分に引き出しが増えただけだった。
中学を出て高校に入ってからもずっとこんな感じで本を読んでいた。
吉行淳之介も丸山健二もサローヤンもサリンジャーもみんな好きになった。
友達にお薦めの本を借りて読んだりもしたが、それも全部おもしろかった。

知識(?)は増えていったが、それを自分自身に結びつけることはできなかった。
大学に入って心理学に出会うまでは。

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デッドベア

sugareeコレクションというわけではないが、私の家のガラスケースにはぬいぐるみが入れてある。
当初はガーフィールドを集めていたのだが、いまいち猫っぽさを感じない表情に飽きてしまった。
やはり猫は本物にはかなわない。

かわりに今やケースの過半数を占めているのが「グレートフル・デッド・ベア」たちである。
もともとGrateful Deadのモチーフである骸骨をハイになった目で見たら笑っているクマに見えたことから、バンドのキャラクターになったとか。
現在ではエディション13までがリリースされていて、その他も含めると139匹+αのデッド・ベアを数えるほどになっている。
それぞれのベアにはGrateful Deadの曲名や歌詞の一部から取られた名前がついていて、また名前のタグにはツアーメモリーとしてミニ・ストーリーが書かれている。
私が最初に手に入れたベアは「コズミック・チャーリー」という名前でそのツアーメモリーには
”シカゴへ向かう途中、僕の白い'68年もののバスが壊れた時、 一台のポリスカーが止まった。
やっかいな事になったと思ったけど、そのおまわりさんは仲間で、 彼自身もバスを持っていた。
彼は、バスの修理を手伝ってくれて、 それ以来、テープをやり取りしているんだ。”
などと書いてある。非常におもしろい。

基本は7インチサイズのもので、それ以外に14インチの大きいのがあり(これは可愛くないので持っていない)、近年になって5インチのミニサイズのシリーズがリリースされている。
7インチの初期のエディションのものは(エディション3rdまで)手が短くて、それ以降のものは手が長くなっている。
限定エディションのものはすごく値段が上がっていて(限定のわりにちょくちょく販売されているのは?)とても手を出したくない。
現在、私の家には7インチのベアが9匹、5インチのベアが5匹いる。
色のきれいなものを中心に、自分なりの趣味で選んだベアたちである。
いつも笑っているので非常に心和ませてくれる。

それぞれ持ち味があって甲乙つけがたいが、一番のお気に入りは「シュガリー」という名のベアである。
そのツアーメモリーにはこう書いてある。
”お気に入りのショーは、89年の4月12日にローズモントで行われた、 ぼくだけのバースデーショー!
その晩は、まるでこっちの心を読んでくれてるみたいに聞きたかった曲を全部演奏してくれたっけ。
今までで一番最高のバースデーだったよ。”

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バルセロナ

cmバルセロナはモダンな街だ。
歩いている人々にもマドリードやアンダルシアで感じたような親しみやすさよりも、ヨーロッパらしい気高さを感じる。
パリで感じたのと同様な空気の緊張感を感じる。
建物もずっと近代的で道路も整備されているので、一見して清潔な印象を受ける。
でもこの街は不思議な世界への入り口をいくつも持っているのである。

ラス・ランブラス通りを北へ、カタルーニャ広場を越えてグランビアをさらに進むと左手に見えてくるのがカサ・バトリョ。
建物の表面にはセラミックがはりめぐらされていて、2階の部分には骨のような突き出し、そして屋根には鱗がびっしり敷き詰められた竜の造形が.....
全ての線は有機的な曲線で構成されていて、夜にはライトアップされて一層奇怪な表情を見せる。
隣接する普通の建物とは明らかに異形なのになんら違和感がない不思議。

さらに進むと右手にカサ・ミラ(ラ・ペドレラ)があらわれる。
石造りの建物だがうねうねしている。
この建物の煙突群(空気取り?)はスターウォーズのストームトルーパーそっくりの顔を持っている。
ガウディによれば兵士の顔ということなのでさもありなんと...

ディアゴナル大通りに出て右に曲がっていくと見えてくるのがサグラダ・ファミリア贖罪教会。
巨大なトウモロコシの林立。
1882年に着工してから今なお工事は続いている。(完成まであと100年〜200年?)
近づくにつれて細部の彫刻やモザイクを眼にすると、これは果たして人間の意志が創り出したものなのかどうか?
アール・ヌーボーという範疇を越えて宇宙的な広がりを感じることだろう。
バルセロナのシンボルであると同時にピラミッドなどと同じように人類のモニュメントである。

さらに北に行けば和やかなグエル公園。
大きなトカゲが水を吐いている正面のモザイク。
広場を縁取るベンチにも色鮮やかなタイルでモザイクが施されている。
地元の子供たちが走り回っている。
広場は木の幹のような柱で支えられているが自然が創り出したような景観だ。
ミロの画にも通じるファンタジーの世界がここにもある。

バルセロナはガウディの街であるがそればかりではない。
ピカソ美術館で天才のいたずら書きを見るのも楽しいし、ミロ・ファンデーションで幻想の世界に遊ぶのも良い。
ラス・ランブラス通りから横道に入ればそこは人生の縮図。
もの乞いや大道芸人、売春婦やヤクの売人、ひったくり等々....
ほっぺたが落ちそうになるローストチキンの店「ロス・カラコーレス」もここにある。

不思議だけれど居心地の良い街。

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最盛期?

japan人間の一生を折れ線グラフで表したら誰でも最大値があるはずで、もちろんひとりひとりその時期は違っていると思うけど、そこがその人の最盛期になるのだろう。
ただやっかいなのは自分自身の最盛期がわかるのは、一生を終えようとする頃であるということ。
そこが面白くもあり悲しくもある。

ある人が亡くなったとする、その人の一生涯を振り返ってああ何歳頃がこの人の最盛期だったんだなあって思ったりする。
でも本人が自身の最盛期がその頃だったことを認識していたのかどうか、また本人にとってその時期が一番良かったのかどうかはまた別の問題。
自分自身で最盛期に輝くことができるのはほんの一握りのひとだけだと思う。
そういうのをひっくるめて「運命」といっても良いのだろうか。

前に占いのことを書いたけど、自身の未来についてはだれでも知りたいと思うのではないだろうか。
とくに現状に満足できていない場合は。
「今がどん底ですね」と言われれば、もうちょっとの辛抱だと思って頑張れる。
とはいっても「3年後に最低の運勢が訪れます」と言われてもどうしようもないのだけれど.....

運命に果敢に立ち向かう人がいる。
ポジティブですばらしいことだと思うけど、それもまたその人の運命に予定されていたことかもしれない。
波瀾万丈の一生を送る人もいれば、平穏無事にその生涯を終えるひともいる。
どちらが良いとはいえないし、一生は一生だ。

”人々は罪だという
 あまりにも多くを知り、感じることは
 今でも彼女がぼくの双児だと信じている
 でもぼくはその指輪をなくしてしまった
 彼女は春に生まれた
 が、ぼくは生まれるのが遅すぎた
 それは運命のひとひねりのせい”

岸田秀さんによれば、国家もまた一個人として捉えられるとか。
日本の最盛期はとっくに過ぎてしまったのだろうか。

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愛する気持ち

hanajpg人は何かを愛さずにはいられない。
その対象は様々だけど、何かを愛することで「生きている感」を得るのである。
フロイトのいう「エロス」を簡単に言ってしまえばそういうこと。

ごく普通に人は異性への愛情を持つけれど、相手に対する愛情の大きさがずうっと続くはずはない。
しかしながら個人の持つ「何かを愛したい」という気持ちは常に一定量あるわけで、当然現在の相手以外の対象を求めることになる。
それがまた異性であれば浮気になってしまうので、対象が人間だと自分の子供である場合や、孫である場合も多いだろう。

自己愛に走るケースもある。女装が趣味の男性なども自己愛の一種だと思う。
異性に対する愛情でも実際は相手に自分の理想の異性像を求めているだけの場合もあるから、そういうのは自己愛にほかならない。
もともと「何かを愛したい」という気持ちは自分自身に足りない何かを欲することから生じているわけだから、対象の違いはあっても本質は変わらない。
だから同性愛もフロイトによれば異性愛と何ら変わりはないのである。

愛する対象が人間または仕事とかスポーツとか人間同士の関係のものであるうちは、必然的に限界があるわけで、相手が自分に近い存在であればあるほど結果がすぐ見えてしまう。残念だけど。
人間同士だとそれが楽しくもあり、苦痛でもある。
さてどうしたものか......

やはりある程度齢を重ねてきたら、人間以外に愛する対象を見つける方が良いのだろうか。
山が好きだとか、鳥が好きだとか、草花が好きだとか。
大昔からみんなそうしてきた。
犬や猫を飼ったり、盆栽をいじったり。
みんな裏切りや失望を避けたいんだな、きっと。

「何かを愛したい」気持ちが無くなったら。
その人は自分自身で満ち足りてしまったのだろう。
そうなったら生きていく力はもう必要とされない。
なら死んでしまうしかないんだけど、死ぬことが生きていたことの証でもあるからそれもできないだろう。
生きながら死んでいる状態でしかいられない。

人間はやっかいだな。

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イヌ年うまれ

inu
戌年生まれである。
来年は年男になるわけで、いいかげんに生きているうちにもう大変な年齢になってきちゃったな。
仕事先で戌年の人たちは何人かいるけれど、一回り上とか下ばかりで、なかなか同い年の戌な人には出くわさない。
私の年代の人たちは結構職を替えるみたいで、卒業以来同じ仕事をやっている人は結構稀である。

戌年の人を見ると、さてこの人はどんな種類の犬だろうかって想像する。
おっかないブルドッグみたいなオヤジもいるし、チワワみたいに愛くるしいのもいる。
どうにも干支というのはその人の顔つきや姿かたちに出ているように思えてならない。
子年のひとはねずみっぽいし、丑年のひとはいかにもという感じだし、寅年の人はすぐ牙を剥くし.....
今年は酉年だけど、年男年女の顔を思い浮かべても、七面鳥みたいなのや、かわいいインコみたいなのや、コンドルみたいなの等々。
もちろん先入観のなせる仕業であることは承知の上ではあるが、なんだか微笑ましい。
猫年がないのは猫みたいにかわいい人間がいないからかもしれないな。

生まれ年のせいかどうかはわからないけども、なぜか犬に好かれるようだ。
散歩している犬とたいてい目が合う。
もう飼い主を振り切って飛びついてくるのとか、まわりをグルグル走り回るのとか....
こっちがバイクに乗っていても目が合うと大騒ぎする犬とかもいるから油断ならない。
学生の頃に中元と歳暮の配送のアルバイトをやっていたけど、どんな犬がいても全然平気だったからその点では助かったかな。

ところで私自身はそれほど犬好きではない。
5歳くらいのときに自分より大きい野良犬が背中に乗っかってきたことがあって怖い思いをしたことがある。
(今思えば噛まれたりしてないので好かれちゃったのかもしれないけど)
あと、犬を触ったあとで手が臭くなるのもイヤだ。
遊んであげると毛がいっぱいつくのもどうかと思う。
六本木で友達を待って通りにあるイスに座っていたら、外国人がでっかい犬を連れてやってきて、犬を外に置いたままスーパーに入っていってしまった。
なるべく犬の方を見ないでいたのだけれど、気づかれてしまい、私の方にやってきては足下で横になってしまった。
繋いでおいてくれれば良いのになあって思いながら、飼い主が戻ってくるまで犬と過ごした。

私は板前見習い時代に店でスヌーピーと呼ばれていた。
いつも眠そうだったからかもしれない。
でもウッドストックのほうが千倍好きなんだけどな。

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写真嫌い

cheese写真を撮ることは非常に好きである。
中学校に暗室があって放課後はずうっとこもっていたりした。
酢酸のツーンという匂いを嗅ぐとなんだかワクワクしたものである。
暗室ランプの頼りない明るさの中で作業をしていると秘密の実験をしている科学者になったようで、きっと目には良くなかったのだろうけど、何時間でもいられた。

写真好きな同級生とクラスの写真集を作ることに勝手に決めて職員室に行き、事情を教師連中に話して授業中に写真を撮る許可を得た。
もともと授業なんて大嫌いだったから、カメラを下げて教室の前や後ろでバシャバシャ写真を撮っていた。
毎日遅くまで暗室作業をして出来上がった写真から良いものを選んでの繰り返し。
知り合いの印刷屋さんに頼んで写真印刷と製本を格安でやってもらって何とか写真集は出来上がった。
同級生に原価で配布して、教師連中には高く売りつけたけどずいぶん無茶無茶だったな。

その後楽器を買うためにカメラや機材を売ってしまい、写真からちょっと遠ざかっていたのだけれど....
デジタルカメラが出始めた頃にまた興味がわいてきて、パソコンに取り込んだり加工したりプリントしたりするのが楽しくなり、現在に至るわけである。
パソコンがアップグレードしていくのに伴って、デジタルカメラの機種もいろいろ替えてきた。
当初31万画素だったのがいまでは800万画素だって。
(そのわりに撮る写真は代わり映えしないけど)

写真の面白いところはある場面を切り取れることだ。
それは風景であるかもしれないし、人物の動きや表情であるかもしれない。
動物や鳥の一瞬の姿かもしれない。
動画では強調できない部分を写真は語ることができる。
すぐれた写真とはすぐれた写真家の目を感じることに他ならない。
わかりやすいけどわかりにくい。

......というわけで、写真を撮るのは好きであるが、撮られるのが大の苦手。
学校の集合写真とかだと、背の高い人の後ろに隠れたりしてちゃんと写っていない。
あるいはうつむいていたり、横を見ていたり、空を見上げていたりでカメラの方に目線が来ていない。
ようするに「撮りますよ〜、バシャ」というのがダメなのである。
さりげなく撮ってくれれば良いのにね。(集合写真じゃそうもいかないだろうけど)
すごい小さいときの写真は結構豊富にあってアルバムにまとめてあるようだけど、学校に入ってから今までの写真はびっくりするくらいに少ない。

そろそろ葬式のときに使えるような写真も撮っとかなくちゃな。

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う〜ん難しい

rock
何気ない一言で他人を傷つけてしまうことがある。
言った後で「しまった」と気づいたときは非礼を詫びることができるけれど、言った当人が全く思い当たらないことで他人が傷ついてしまった場合はやっかいなことになる。
要は相手に対する理解が足りなかったのだと言えばそれまでなんだけど、逆に相手もまたこちらに対する理解度が欠けていたとも言える。
そんな言葉がまさかこの人の口から出るなんて....という具合。
これは非常にデリケートな問題なのである。

人間の意識が言語で構築されている以上、言葉での一撃には非常に弱い面がある。
強い人間でもその意識のどこかにはとても壊れやすいパーツを持っているから、そこに突き刺さる一言でそれまでの自信がガタガタと崩れてしまうこともある。
何の兆候もなかった人が突然に自ら命を絶ってしまったりすることがあるが、その原因は例えば友達のささいな言葉だったりする。
この場合、その一言を言った友達が悪いのだとは言い切れないところがむずかしい。

日常の会話というのも、こう考えてみると細心の注意を要するわけで、かといってそこまで気を使いながら常に言葉を発していくというのも無理がある。
なるべく聞き流すにこしたことはないのかもしれないけど、それもなんだか非人間的だし。
自分を防御しながら人の言葉を受け入れていかなければならないというのは結構大変な作業である。
自分に無関係な芸能人や有名人の悪口を言ったりするのがいちばん気楽で良いのだろうな。
だから掲示板とかで好き勝手な罵詈雑言を書く人が絶えないのだろう。
「匿名」という堅牢な鎧に守られて。

”愚かな風が 君のコートのボタンを吹き抜け
 俺たちが書いた手紙を吹き抜ける
 愚かな風が 俺たちの棚のほこりを舞い上げる
 俺たちは愚かだ
 俺たちが食べることができるなんて驚きだ”


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まったくもう

CD
いやはや音楽業界の流通はいったいどうなっているのだろうか。
もう廃盤の多いこと多いこと。
あの名盤が...って思うようなCDがことごとく廃盤になってしまっている。
洋楽、邦楽、ジャズ、クラッシックを問わずである。
その一方ではえ〜っと思うようなのが復刻されていたりして、これはどんな方針で決定したのだろうかと訝しく思ったりする。

まあ音楽業界に限ったことではないけれど、流通全体が変革期を迎えていることはわかるし、間違いないことだと思う。
でも出版業界もそうだけれど、文化を担うという点で他の流通とは違ったポリシーを持ってほしいと願う。
テレビ局が視聴率第一主義に走った結果が現在の体たらくであることを鑑みるに、同様の節操のない流通が業界をダメにしていくように思えてならない。
なんとかしろよ。

レコード会社はもっと自社のレーベルを大事にしてほしい。
忘れた頃にぽっとインディーズから復刻されたりするけど、どうなってるの?
インディーズが力を持ってきたように見えるけど、実際のところは大手レコード会社の力が失墜しただけじゃん。
自分の会社で育ったアーティストの軌跡は自社の歴史の何ページに他ならないでしょう。
歴史は大事にするもんだし、それが文化を作ることだと思うけどな。

音楽は徐々にネット配信に切り替わるパーセンテージが多くなると思うけど、頭でっかちの年寄り連中があの手この手で妨害するものだから、なかなか自由度の高い配信は望めない。
アーティスト側でもっと力を持てればよいのだけれどそこまでの結束力も資金力もないのが現状だから。
年寄りたちが死ぬのを待っているうちにどんどん文化が消えていっちゃうよ。

おれたちに何の利益があるのかさっぱりわからない郵政民営化とか、消費税率を10%にするとか12%にするとかバカなことを言ってないで、もっと身近で切迫したことから改革していけよな。

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戸川さん

jun
そろそろ戸川純のことを書かなければ。

ゲルニカはスルーしてた。
最初に知ったのは例のTOTOのCMで、そのあと「笑っていいとも」とか「夜のヒットスタジオ」とか多方面に露出されたので、強烈な印象を受けていた。
ドラマ「無邪気な関係」とか「刑事ヨロシク」とかでも存在感ある演技を見せてくれて、いつも気になる存在だった。

アルバム『玉姫様』を初めて聞いたときの第一印象はなんて歌がうまいんだろうっていうこと。
音域の広さとか表現力とかはそれまでTVで見ていた戸川純のイメージを一変させるものであった。
楽曲的にはエキセントリックなキャラクターを強調しすぎの嫌いがあって(特にタイトル曲とか「隣の印度人」とか)、ついて行けない感もあったが、「森の人々」や「蛹化の女」に見られる可憐な印象に心惹かれるものがあった。
2ndアルバム『好き好き大好き』では一転してポップな楽曲が多くなり、戸川純の一面であるはじける感じが良く出ているものになった。
タイトル曲や「遅咲きガール」は悪のり気味の明るさが楽しい。
また「オーロラB」のように相変わらずの可憐さを見せる曲もあり、彼女の世界の奥行きを感じさせられた。

ヤプーズの活動を気にするようになったのは第2期(?)からで、吉川洋一郎さんがキーボードで参加してからの音楽性の高さに驚かされた。
『裏玉姫』のエレクトニック・パンク路線はより洗練されて、「昆虫群」や「電車でGO」等の楽曲も質の高いポップな演奏になった。
当時のツアーはLD化されていて、戸川純の衣装も非常にファッショナブルで良い。
『ヤプーズ計画』発売時にはTVの音楽番組にも何度か出演されていて、ストレートに受け入れやすい演奏を聴かせてくれた。
その後メンバーは何度も替わったがアルバムごとに強いコンセプトを打ち出していて、特に『ダダダイズム』と『ダイヤルYを廻せ!』はエレクトロ・ポップ史に残るであろう名盤である。

戸川純の魅力は少女の可憐さと非日常的な凶暴性の混在にある。
彼女の書くラブソングあるいはヘイトソングの歌詞には独自のインテリジェンスと叙情性の奇跡的な結合が見られて、彼女が唯一無二の存在であることを主張している。
「ヒステリア」、「ギルガメッシュ」、「赤い戦車」等の歌詞を熟読されたし。

『HYS』を最後にヤプーズの活動は休止。
2000年くらいからホッピー神山さんらとの活動がスタートして、戸川純BANDのライブ&CD、水谷紹さんらとのtricomiでの活動、そして山本久土さんとのデュオである東口トルエンズなどびっくりするくらいに精力的な音楽活動を行っている。
21世紀の戸川純の方向性を模索しているのであろうか。
ヤプーズの活動も昨年から再開されているのだが、正直な感想を言えばヤプーズとtricomiはいまの戸川純にはミスマッチだと思う。
この2つのユニットに必要だと思う若さが残念ながら現在の彼女には感じられない。
逆に、東口トルエンズはいまの戸川純でしか表現できない世界を作っていて、これはひょっとすると21世紀版のゲルニカなんじゃないかって思ったり。

熱烈なファンじゃなくてごめんなさい、戸川さん。
またご自身の素敵な歌詞を書いてくださいね。

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プロ意識?

momo01
朝起きて気力・体力がみなぎっていて「きょうは絶好調だな」と思うことなんてほとんどない。
それは確かに学生の頃には調子良い!って感じる日があったけど、仕事するようになってからは皆無に近い。
健康かと聞かれればまあまあと答えられるけど、あちこちにガタが来ていることも事実である。

思うに、学生の頃なんて3日間徹夜して1日半寝っぱなしとか、半年以上に渡って1日1食(夕方のみ)とかを平気でやっていたのに、ずいぶん健康であった。
体重が1ヶ月で15キロくらい増減したりして、これはまずいかもと思って病院に行ったけど何も異常はありませんと言われたり。
ただ、不調のときは徹底的に不調で、福島の友達の家に遊びに行った際に風邪を引きこじらせて40℃の高熱が10日間くらい続いたこともあり(さすがに死ぬかと思った)、それほど極端でなくても寝込むことが多々あった。
周りからは顔を見れば調子がわかると言われていた。

学校を出てからは病気で寝込むことが少なくなった。
生活に規則性が出来たことも一因だとは思うけれど、最近まではそれほどきちんとした生活をしていたわけでもないし、もともと睡眠時間が短いのでいつも寝不足気味な感じである。
朝起きても疲労感は残っているし、スロースターターなので仕事のペースに乗るまで時間がかかる。
たまに寝込むこともあるけど、たいていが週末だったりして、月曜日には何とか仕事が出来るくらいには回復する。
なので病欠したことは一度もない(自慢ではあるが、けっこう損に思っている)。
頭痛持ち、肋間神経痛持ちではあるが会社を休むほどじゃあない。

前にプロの料理人のことを書いたけれど、会社勤めしている以上は誰しもプロの会社員である。
休まないということもある意味プロの条件なんじゃないかと思う。
そりゃ身内に何かあったり、どうしてもという外的要因でやむなく休むこともあるだろう。
そうじゃなくて、自己管理の範囲内で体調を壊してしまったりするのはダメなんじゃないか。
いつも80点以上の体調を維持する必要はないけど、せめて40点くらいまでは保てるはずだと思う。
「ぼく風邪ひきやすいんですよ」で済ましてはダメだぜ。
じゃあ何に気を付けたらいいかぐらい自分が一番判ってるはずだろうし。

大人になるということはある意味ずるさを身につけることかもしれない。
自分の身体に正直になりすぎているなんてガキの証拠だろう。
自分自身をだましだまし出来るだけ好不調の波を作らないようにして毎日を過ごしていくことが出来なくてはならない。
最近の社会で「うつ病」になる人が増えているのも、ある意味大人になりきれない人が増えていることと無関係ではない。
もっとプロ意識を持とうぜ。

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プロ野球は

yakyu

今月になってセントラル・リーグとパシフィック・リーグの交流戦が行われている。
スポーツ紙やTV・ラジオでは盛んに盛りたてているけど、実際の所は.....パッとしない感じだ。

もちろん公式戦であるから勝敗も個人成績も反映するわけで、真剣勝負をやっているのであるがあまり面白くない。
なんだか時季はずれのオープン戦みたいな印象を受けるのは私だけだろうか。
それとも今年から始まったばかりで、選手や監督たちもモチベーションを上げるのが難しいのだろうか。

でも、いくら子供がなりたい職業の1位にプロ野球選手が返り咲いたとは言っても、もう昔のような人気を望むことは無理だろうな。
(ちなみに女の子のなりたい職業の1位が食べ物屋さんというのも笑わしてくれるじゃないの)
一回の試合が3時間以上かかるスポーツでしかもシーズン中はほとんど毎日のように試合があることを考えると、もはや現代の娯楽とは言い難いと思う。

前にも書いたけど、プロ野球に興味を持たなくなってから久しいのだけれど、一番の原因は時間がもったいなくなったからである。
試合を見て、スポーツニュースを見て、翌朝の新聞を見て....それだけでもうたいへん。
それを半年以上続けてたことを思うとなんという無駄な時間を過ごしたのだろうって後悔する。
”何かに凝らなくちゃだめだ”ってムッシュは歌うけど、凝る対象がプロ野球じゃちょっとね。

プロらしい選手がいなくなったとは思わない。
ただ、昔みたいに個性的というだけじゃ今の時代に輝けなくなったから、それはプロ野球の世界だけじゃないけどね。
日常が穏やかなものであった時代はハプニングもそれなりに意味を持ったのだけれど、今は珍しくも何ともないから。
「巨人が弱いからプロ野球が盛り上がらない」なんてほとんどの人は思ってないよ、日テレさん。

今では街を歩いていても野球帽を被った人を見ることは少なくなった。
唯一の野球帽の聖地は「秋葉原」だもの。
アキバに来た外国人のひとなんか、日本人はよっぽど野球が好きなんだなぁって思っているのかもしれない。

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アンチ偏食

food
何でも食べる。
極端な偏食の父親のいる家庭に育ったのだが、苦手なものはなにもない。
食べられる物であれば初めて食べるものでもまったく構わず食べる。
むしろどんな味がするのか興味津々である。

小学校の頃、給食の時間に食べられない物が出たとかでなかなか食事が終わらない子がいた。
給食時間をまるまる使ってさめた給食の皿と格闘している。
担任の先生が「残すんじゃない!」と言うものだから、昼休みまで苦しんでいたりする。
(いまは無理に食べさせないそうで....それはそれで、なんだかなぁ)
何でも食べる自分には理解不能であった。

シイタケが食べられない、ピーマンはだめ、ヨーグルトが苦手、ネギはよけちゃう....etc.
例えばエビを食べるとアレルギー症状が出る人とか、りんごに反応しちゃう人とかだったら食べられないのは理解できるけど、他の人が美味しく食べているものが食べられないとはどういうことだろう?
好き嫌いのDNAなんて存在しないから、単なる個人の学習の怠慢なのだろうか。
味覚も嗅覚も後天的要素が大きな割合を占めているのだから、むしろ経験不足のせいといったほうが良いのかもしれない。

でもね、チャーハンから一生懸命グリンピースを取り出して皿の隅にかためている人や、ホットドッグを開いてピクルスを丁寧に取り除いている人をみると、決して良い気分はしない。
なかには自分が嫌いなものを他人が食べているのを見て露骨に嫌な顔をするひともいて、そういうのって失礼じゃないかな。
偏食自慢大会みたいなのをしてる人たちもよく見かけるけど、理解できないししたくもない。

豚カツ屋さんでアルバイトをしていた頃に、男女二人連れのお客がヒレカツ定食を頼んだ。
カウンターから見てたら、女がヒレカツの衣をはがしだした。
「何やってるの」と男。
「私トンカツの衣が嫌いなの」
こんな客には豚カツ屋に来て欲しくはない。

あれが嫌いとかこれが苦手とか言ってないで、食べ物なんだから食べられるように学習したほうが絶対にいいと思う。
逆に言えば、好き嫌いのある人が美味しいとか不味いとか言う資格はないんだぜ。

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酔っぱらいたち

nakajima
板前見習時代に散々酔っぱらいを見た。
新橋という場所柄かほとんどの客がサラリーマンで、みんなスーツをビシッと決めて店にやってくるのだけれど、帰りはだらしない感じになってしまう。
宴会とかあると店は大変な騒ぎになる。
座敷の座布団にビールをこぼす、鍋にネクタイが入っていたこともある、トイレを汚す等々.....
宴会後の後かたづけをしているとなんとも情けないような悲しいような。

お勘定をする歳に中年オヤジたちがお互いに譲り合ったりしているのが気持ち悪かった。
また、店を出てからオッサン同士で抱き合ったりしているのも滑稽な絵だった。
女性同士でやってきてさっと飲んでさっと帰っていくのを見ると、格好良いなって思ったものだ。
どうも酔っぱらうとオカマっぽくなるオヤジが多いのはなぜだろうか。

電車の中で。
酔ったサラリーマンが2人、ひとりは恰幅の良い中年男でもうひとりはやや年配の男。
年配のほうの男は膝に来るくらい酔っていて吊革につかまりながら大声で喋っている.....
「...でもね、俺は思うんだけど、中島はたいしたもんだ!」
(恰幅の良いほうが中島のようである)
「おまえは若いのに人をまとめる力があるからな。いやほんとに偉いよ。」
「...そんなことはないよ。」
「いやいやいや、たいしたもんだよ。中島は。本当にすごい奴だ。」
「.....」
「それに比べるとミネはだめだな。」
「.....」
「あいつは人は良いんだけど。リーダーには成れないからな。中島と違って...」
「ミネさんも良くやってますよ」
「いや!あいつは駄目だ。あいつは人の上に立てない奴だ。そこへいくと中島はすごいよ」
「.....」
「みんな中島の言うことは聞くからな。ほんとうに大したもんだ。.....ミネは人は良いんだけどな.....」
こんなかんじで年配の男が延々と中島を讃えているうちに、ちょっと離れたところに席が空いて中島はそこに座って寝てしまった。
年配の男はしばらく吊革に両手でつかまって「ミネはだめだ....」と呟いていたが、そのうちにうたた寝をはじめて時々膝をガクッとさせていた。

私は彼らより先に電車を降りたが、なんだか「ミネ」という人のことを想像して、もの悲しい気分で帰宅した。

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香港

hongkong香港は素敵なところだ。

歩いている人たちがお洒落なのがいい。
チムサーチョイとかコーズウェイベイあたりにいる若い子たちは渋谷なんかよりよほどお洒落だ。
なんかダサい奴だなーってよく見ると日本の観光客だったりする。
ブランドものとかメチャメチャ高そうな服を着てる人は少ないけど、何故だかキマッてる子が多い。
貧富の差は日本よりずっとあることはわかるけど、貧しい人はそれなりに質素な格好をしていて良い。

街に表情があるのがよい。
香港の建築は風水に基づいて建てられたものが多く、向きとか結構バラバラで雑然とした印象をうける。
そして繁華街にはお馴染みの電飾看板があるけど、昼間見ると意外にボロかったりして。
でも通りから通りへ、あちこちの角を曲がって歩いていると楽しい。
香港はいつ行ってもいろんな場所で工事をやっていて、なかなか同じルートを歩けないのも面白い。
朝早くから深夜まで通りに人が絶えないのも香港らしくて良い。

日本語がほとんど通じないのがよい。
もう誰に話しかけても通じそうに思えるのに、「・・・」という反応をされる。
表に日本語の張り紙をしてるお店でも決して安心は出来ないのがすごいところ。
広東語はやかましくて早口でむずかしいから、へたにうろ覚えの挨拶とかできないし.....
ゆっくり片言の英語を話すしかないかも。
ハワイとかのほうがずっと日本語が通じるのが何か変な感じだ。
街中で道を聞くなんて結構苦労するはず。

食べ物が美味しい。
これはもう香港に行く一番の楽しみである。
地元の人で混んでいる店は好き嫌いがなければ一番お薦めできるけど、1年後にまだあるかどうかが判らないのもまた香港ならでは。
高い店はそれなりの出費を覚悟していかないとならない。
やはりどこの店も日本語は通じない(日本語メニューがある店も存在するけどお薦めしない)から事前に予習していった方が良いんだろうな。
以前、となりのテーブルに座った日本人のおばさん達が蒸しエビのあとでいきなりチャーハンを頼んでいたので驚いたことがある。
お通しの次にお茶漬けを頼むようなもんでしょ......

空港がきれい。
昔の啓徳の空港もスリリングで良かったけど、いまの香港国際空港はきれいで広くてすごく良い。
成田のせせこましい感じとは好対照で、いかにも世界に飛び立つ拠点という感じの空港だ。
通路の幅が広いのが何よりもうれしい。
買い物をする人、出発前に休憩してる人、急ぐ人、寝てる人等々。
様々な人たちが空港内にいるけど全然気にならないのが良い。
(ただ空港内での食事はイマイチかも)

SARSの騒動があって日本人の観光客が激減した時期も香港の人たちは忙しく頑張っていた。
日本で携帯電話がまだ普及してなかったころから香港ではほとんどの人が町中で使っていた。
みんな忙しそうで、日本の朝の通勤電車みたいにショボクレた顔をしてる人はほとんどいないし。
香港は休暇で行っても元気をもらって帰って来られるところだ。
自分たちは中国本土とは違うよって大体の人が思っているのだろう。
返還を喜んだのは中国の人たちばかりだし。
先日の反日デモが香港であったとの報道にびっくりしたけど、まだまだ香港は香港のままでいるはずだ。
(将来はどうなるかわからないけど)

ちょっと余裕のある3連休が取れたら、小さいカバン1つで気軽に香港に行くと楽しいよ。

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小さい頃のヒーローたち

fred3歳か4歳くらいの頃の記憶はさすがに曖昧なものだけれど、当時の写真を見るとビニールの馬のおもちゃにまたがって頭にタオルを巻き、大きなサングラスをかけて笑っている自分がいる。
これは「快傑ハリマオ」の格好らしいが、ドラマの内容などは全く覚えていない。
(三橋三智也の歌う主題歌は有名なので覚えているが)

同じ頃の別の写真では、当時の父親の同僚らしいワイシャツ姿の大人に噛みついている。
しゃがんだ状態で右の肩を噛まれている人はたいへん痛そうである。
当時のプロレスの悪役、銀髪鬼「フレッド・ブラッシー」の真似をしているのだ。
こちらは結構鮮明に覚えていて、力道山VSブラッシーの試合で後半まで優勢に試合を進めていたブラッシーが最後に血だらけになった力道山の空手チョップの嵐を受けてマットに沈んでしまうのがすごく残念だった。
噛みつきという卑怯な反則技は幼心をドキドキさせたのである。
しかも4歳当時の私の歯はチョコレートの食べ過ぎでボロボロになっていたから、噛まれた相手はさぞや痛かったろうに。
まわりに同年代の子供がいなかったのでいつも遊び相手は大人ばかりだったから、好き勝手にやらせてくれたっけ。

小学校にはいってからのヒーローといえばまず「大橋巨泉」。
子供心に何でも出来る人という印象をうけた。
釣り・ゴルフ・ボーリング・音楽etc.
言うことも大きいけど、ちゃんとやっちゃうところがすごいなーって思った。
あと金曜日の11PMに出ていた釣りの「服部名人」。
世界を股にかけるロケと、いつ見ても真っ黒に日焼けした顔。
トローリングでハンマーシャークと一騎打ちしたときなんて、もう格好良くて参りました。

当時のN響の常任指揮者だった「岩城宏之」も小学校当時のヒーローの一人だった。
曲がクライマックスにかかるときの鬼のような表情とダイナミックな両手の動きは見ているこっちの手にも思わず汗がにじむほどで、まさにテレビで見る指揮者だなって思った。
曲が終わったときにはまさに試合が終わったあとのボクサーみたいで.....
カラヤンの指揮なんか妙に洗練されていて、あのヤロー気取りやがってなんて思っていた。

やがて小学校も高学年になると音楽では「岡林信康」、文学では「三島由紀夫」がヒーローになっていくのだけど、きょうはこのくらいで.....


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母の日

7505月の第2日曜がなぜ「母の日」なのだろうか。
調べてみたら、アメリカの真似っこらしい。
ちなみに「父の日」もアメリカに習ったようだ。
道理で変な時期にやると思った。
もし日本で勝手に制定するなら「母の日」は8月8日、「父の日」は7月7日にしてただろうな。
お父さんは七夕と一緒にお祝いしてもらっていたかもしれないし、母親に贈る花もカーネーションでなくカサブランカとかになっていたんだろうな。

ところで日本では「母の日」のギフトとかの市場規模ってバレンタイン・デーとかクリスマスより大きいとのことで、ちょっとびっくり。
母系社会であるこの国ならではなのか、母親がいかに普段ないがしろにされているかをあらわしているのか?
どちらにせよ「父の日」よりはずうっと重んじられてきたのは間違いないことで.....
父親の立場は弱いけど、さんざん好き勝ってやってきただろうからしかたがあるまい。

 ”幻滅した言葉は弾丸のように吠え
 人間の神々がねらう的の材料は発光する玩具の鉄砲から
 暗闇で光る肉色のキリストにいたるあらゆるもの
 そんなに遠くを見なくても簡単にわかるが
 それほど多くのものが本当に神聖なのではない
 
 牧師が有害な運命について説教し
 教師が知識が待っていると教え
 百ドルのプレートに連れて行けると言っている間に
 善はその背後に隠れている
 が、アメリカ合衆国の大統領でさえ
 ときには裸で立たねばならない
 
 道路の規則は委ねられているとはいえ
 避けなければならないのは人々のゲーム
 それでいいんだ、ママ、おれはできるよ”

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きょうの運勢

dream
占いをみるのはおもしろい。
朝のTVとかできょうの運勢をやっていると見てしまう。
私は山羊座なのだがちなみに本日の運勢だと健康と愛情が×、お金が○、う〜んよく分からない。
土曜日というのはいちおう仕事をしているのだけど、得意先が休みのところばかりなので、ほとんど何事もなく過ぎていく。
愛情が×と言われても知らないところで誰かに嫌われているのかも.....べつにどうでもいいや。
健康はこの歳になってくると絶好調なんていう日はないからいつも△だし。
お金が○はさっぱりわからない。落とさなかったから良かったのだろうか?

たまに最高の運勢ですという日があって期待したりするが、ヤッターって実感することはまず無い。
逆にきょうはツイてませんと言われると、ちょっと慎重に一日を送ったりして、何かトラブルがあるとやっぱりなぁって思ったりする。
占い、良いこと無いじゃん。

だいたい私の誕生日は12月23日でぎりぎりの山羊座である。
もう2日早ければ射手座だし、そんな人は世の中にいっぱいいて例えば10月23日生まれの天秤座と10月24日生まれの蠍座の人の運勢が全然違うのもなんだかなぁ。
ただ先日の列車事故みたいに1本違いで事故に遭う会わないというケースがあるから、1日違いで大違いなんだと言われればなるほどと思うのもまた事実。

無人島で一人で暮らしているならともかく、普通に暮らしていると必ずや他人とのやり取りを伴うわけで、ツイてる人と、絶不調の人が混在すると結果的にはワケが分からなくなっちゃうものだ。
個人の運勢はそれほど重要じゃないのだろうな。
特に結婚してから全くギャンブルをしなくなったから、運勢を実感することが少なくなった。

人間の運は一定量であるから、一生幸運が続くことも、不運が続くこともあり得ないというのは持論である。
また、どこかですごい運を使ってしまうと必ずやその反動があるとも思う。
私は逆子で生まれたらしく、臍の緒が首に巻き付いて仮死状態だったらしい。
とりあげた医者が蘇生させたそうで、そうなると誕生時にすでに運を使い切ってしまったのかもしれない。
あ〜。

まあ後戻りできない毎日であるから、楽しく過ごしましょう。

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ニートな週末

ari
ニートが増えているそうである。
Not in Education,Employment,or TrainingでNEETだそうな。
要は「働かず、学校も行かず、職能の訓練も受けていない」人たちのことであるけど、これは病気なのだろうか。
まあ今の日本は国自体が病んでいるともいえるが。

私の会社にもハローワークの職員が頻繁にやってくるけど、リストラで職をなくした人ばかりではなく、いわゆるフリーターとかニートの人たちがあまりに多いので何とかしなくちゃということらしい。
長引く不況が悪いのか、働かないやつらが多すぎるのが悪いのかは単純に答えられないけど、なんだかんだではね返ってくるのは普通に働いて暮らしている私たちなわけで。
税収の不足を全部押しつけようとするけど冗談じゃないよ。
何度も同じ道路を掘り返したり、うさんくさい電話工事ばかりやってないで、すこしは若いやつらに仕事をさせる方法を考えて欲しいよ、まったく。

とにかく若い子たちは消費をしたがらない。
安物とレアものしか手に入れない。
みんな人から借りたりもらったり、しかも借りたものはなかなか返さない(実話)。
パソコンのソフトウェアだって友だちや会社のをコピーしたり......それって犯罪だよ!
お金を使うのは中高年世代ばかりで、結果として懐かし系の商品ばかり出回って、市場に活気がなくなった。
定職に就かないから計画的な消費が出来なかったり、バカじゃないのか。
バブル期を過ぎていい加減なことで儲けてきた企業はどんどん駄目になって、ようやく日本の社会が堅実路線を歩み出そうとしているのに、「稼いで使う」という世の中の基本が壊れてしまってはどうしようもないよ。

もちろん、ニートやフリーターが普通に暮らしてられる世の中にしてしまったこの国の指導者たちが一番悪いのは言うまでもない。
いわゆる戦後教育の結果であるし(ゆとり教育なんていう愚かなこともやったし)、バカ息子やバカ娘を育てた親たち、またその親たちの責任は重いぞ。

"what's done is done"すんでしまったことは仕方がない、なんとかしようぜ。

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こどもの日

dvd
子供のいない家庭ゆえ五月五日に特別なイベントはない。
もうどこに行っても子供がやたらいる日だろうから、家でおとなしくしている。
少子化社会だというのになんであちこちに子連れが目立つのだろうか。
中年夫婦二人連れなんてはっきり言って見かけないし.....

というわけで近所のビデオ屋さんでDVDを借りて見ている昨日今日。
昨日は『コレクター』と『ペイ・チェック』、今日は『スネーク・オブ・アイズ』と『マルホランド・ドライブ』。
個人的にはヨーロッパの映画が肌に合うのだけれど、家人が嫌がるのでハリウッドのサスペンス系でかためてみました。

『コレクター』はモーガン・フリーマンに尽きる。
白目がちな眼の演技が良いし、無表情ぎみのところがまた良い。
ヒロインのアシュレイ・ジャッドはちょっとジュヌヴィエーヴ・ビジョルドに似た感じの女優さんだけど、ちょっと演技の繊細さに欠ける印象。
ストーリーはまあまあ、もうちょっと猟奇的でも良かったかも。

『スネーク・オブ・アイズ』はブライアン・デ・パルマ監督、ニコラス・ケージ主演ということで期待が大きかった。
音楽の使い方とかはさすがと思わせるものがあったけど、もう少し切れの良い演出が出来たのでは?
ストーリー的には香港映画とかでよくあるタイプの話だから、新味はなかった。
ニコラス・ケージはほんとうに良い役者だけど、なんだかもったいないな。
『殺しのドレス』とか大好きだったんだけど、デ・パルマ監督も歳をとったのかな。

『ペイ・チェック』はジョン・ウー監督。
主演のベン・アフレックってよく知らないのだけれど、若い頃のジェームズ・カーンみたいな感じで、アメフトやってました系の俳優。
最初のうちジョン・ウーには似合わないCG多用のSFっぽいシーンが続いて、これは借りなきゃ良かったかもって思ったのだけれど、ジェット・コースターの最初の登り坂みたいなものでした、中盤からの展開はすごい。
謎解きもからめてジョン・ウーならではのアクションとスピード感のある演出にぐいぐい引き込まれる。
ストーリーも意外性に富んでいて、これは今回の大当たりでした。お薦めします。

最後の『マルホランド・ドライブ』。
これはまだ見てないので、何も書けません。
面白いことを期待して.....


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名前は正確に

taishi私の名字はちょっと珍しい読み方をするので、小学校以来正確に読んでもらえない。
たいていは最初に訂正してちゃんと読んでもらえるのだが、中にはちっとも覚えてくれない先生とかいて、面倒くさいからそのまま1年間ほうっておいたりした。
最近では名前の漢字を間違えてくる人が多くなった。
私の名前は「喜明」なのだが「善明」と書いてくる。
私は決して善人ではありませんから......

サド=マルキ・ド・サド
マゾ=ザッヘル・マゾッホ
ゴッホ=フィンセント・ファン・ゴッホ
ゴヤ=フランシスコ・デ・ゴヤ
ショパン=フレデリック・フランソワ・ショパン
シェークスピア=ウィリアム・シェークスピア
トルストイ=アレクセイ・コンスタノビッチ・トルストイ
ゴーリキー=マクシム・ゴーリキー
アンデルセン=ハンス・クリスチャン・アンデルセン
ベートーベン=ルードウィッヒ・ヴァン・ベートーベン
ヘミングウェイ=アーネスト・ミラー・ヘミングウェイ
ジーコ=アルトゥール・アントゥネス・コインブラ
クリムト=グスタフ・クリムト
ピカソ=パブロ・ピカソ
プリンス=プリンス・ロジャース・ネルソン
トム・クルーズ=トーマス・クルーズ・マポーザー4世
バッハ=ヨハン・セバスチャン・バッハ
マネ=エドゥアール・マネ
バルザック=オノレ・ド・バルザック
聖徳太子=上宮之厩戸豊聡耳命
ガンジー(マハトマ・ガンジー)=モハンダス・カラムチャンド・ガンディー
ガウディ=アントニ・ガウディ
コナン・ドイル=アーサー・コナン・ドイル
ベネディクト16世=ヨーゼフ・アロイス・ラッツィンガー
モーツァルト=ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
ペレ=エドサン・アランティス・ド・ナシメント
ジミヘン=ジェームス・マーシャル・ヘンドリックス
モネ=クロード・モネ
きよ彦=大堀 清日古
ボブ・ディラン=ロバート・アレン・ツィンマーマン

ジャンルが偏ってるかもしれませんが悪しからず。

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上野動物園

bird
GWも後半に入ったそうで....といっても日祭日のみしか休んでいないから、今日からようやく3連休になったわけで。
たまには日記らしく。

私の場合、休日は7時起きが基本である。
平日より1時間以上ゆっくり起きるので楽なはずだけど、前日につい夜更かししてしまうので「寝た〜!」という感じはない。
連休初日なので上野動物園に出かけてみた。

実は国立科学博物館で開催中の「恐竜博2005」を見たかったのだが、新聞紙上の大盛況ぶりをみて怖じ気づいたのである。
明後日はこどもの日だし、今日が一番良いかなという考えでカメラを提げて会社からとことこ歩いていった。
(会社は秋葉原なのであるいて20分くらいで上野に行ける。でも休日なのに一旦会社に行くところが貧乏性。)
朝のうちは涼しかったのだけど歩いたせいもあって額に汗がにじむ。
上野公園の中を通って動物園の表門についたとき、あまりの人の多さにげんなり。
しかもほとんどが子連れ。
あと目立って多いのが老人(65歳以上は入園料が安い)。

入場券を買って中に入る。
昨年の旭山動物園の大ブレークに刺激されて、他の動物園も多少なりともリニューアルされているらしい。
右手にパンダがいるのだが人が多いので避ける。
インド象をみてから鳥のいるほうに。
フクロウ、ミミズク、ワシ、タカ等のケージを見て歩く。
オオワシとかを見ると、顔つきとか足とかに恐竜との類似点が多く見られる。
恐竜が進化して鳥になっていった説は正しいんだろうな。

そこを過ぎてからすごい人のかたまり。
ライオンとトラがいる場所だ。
ライオンは遠くから後ろ姿をちらっと見せただけで、トラは岩の上でだらしなく寝ていた。
さっさと通り過ぎる。
ゴリラもいたけど背中だけ見えた。
あたりまえだけど動物たちにサービス精神はゼロだ。

バードハウスというところでまた鳥たちを見る。
何だかんだいっても鳥を見るのはおもしろい。
寝てるやつはいないし、色がきれいだし。
インコも小鳥屋さんでみるときの何倍も大きなケージで大量にみるとおもしろい。
鳥のいるところには植物もいっぱいあってグリーンをバックに鮮やかな鳥の色が映える。

その後、少し歩いてから池之端側の出口についた。
人の多さに疲れたので終わりにする。
不忍池の貸しボートの異様な多さにまたビックリ。
ろくに進めなさそうな混みかただ。

ずいぶん久しぶりに来た上野動物園だけど、来るときを間違えたかも。

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Power of Love

ai
アーティストがその創作意欲を燃やすには「愛」を必要とするケースが多い。
多くの歌が「ラブ・ソング」の範疇に属する。
絵画においても古今を通じて人物画にはモデルへの「愛」が作品を生み出す原動力となっている。
(ピカソやシーレはその最たるものだろう)
文学でも川端康成や吉行淳之介をはじめヘンリー・ミラーにいたるまで「愛」の文学が星の数ほどある。

いつも疑問に思っていることがある。
この「愛」のパワーはそのアーティストの生涯でどのくらい持続できるものか。
また年齢とともにどのように形を変えていくのだろうか。

例えば20歳の青年が抱く「愛」の感情と60歳、80歳のそれとは全く同じものではないだろう。
ただ単純に肉欲がプラトニックなものに形を変えていくとは思えないし。
(谷崎潤一郎とかの例もあるし)
26歳のDYLANが歌った《I Want You》と60歳過ぎてなお《I Want You》と歌うのは聞き手の側にも伝わり方が違ってくる。
歌っている本人の立場ではいったいどういう感じなんだろうか?

「いつくしむ」は「慈しむ」とも「愛しむ」とも書ける。
このいみでの「愛」であれば理解しやすい。
近年の井上堯之さんが歌われる「愛」はこの形に近いものだ。
人類愛とか弱者への愛、ときには「哀」。

私たち日本人の特に男性は、歳と共に自然に還ろうという傾向が強くなる。
夕方、玄関を出たあたりで遠くを見つめてじっと佇んでいる老人は何を思っているのだろうか。
小鳥や犬を愛でている彼らの「愛」もまた違った形で存在するのだろう。
(まあ中にはとんでもないエロオヤジもいないわけではないが)

でも他国の人々にはこの歳でよくもまあと思うくらいギンギンの「愛」に満ちあふれたひとが多くて。
どっちが自然なんだかわからないけど、私としては土に還っていくような老人のほうが好きかも。
瀬戸内寂聴さんあたりに伺えばまた違った見方も出来るようになるのかな。
女性は生涯を通して女性のままであるらしいし。

バイアグラなんて絶対日本人が思いつくわけないよ。


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想定の

mm型破りな人間が少なくなった。
というか、規格はずれな人間が生活しづらい社会になってしまった。

ライブドアの堀江社長がよく使う言葉で「想定の範囲内」というやつは今の社会で生活して行くためには必須の条件である。
あらゆる反応・結果をあらかじめ予測しておけば、自ずと対応策も想定できる。
時間的余裕のない今の社会では事前の予測をしていかなければ先へ進んでいけない。
先へ進んでいかないと言うことは停止ではなく、社会のスピードに後れを取り、結果取り残される事になってしまう。
個人個人がナビゲーターをつけて生活していかなければならないわけだが.....。

グローバル化とやらで社会のスケールはどんどん大きくなっている。
それに相反して個人のスケールは縮小する一方みたいだ。
自分の想定外の人間や事象は無意味なものとして排除する。
自分の壁を突き破るのではなく、計画を持って増築することで自己を拡張していく。
安全且つ慎重であって意外性は決して生まれない。

若い世代の人たちにこうした傾向が多くなってきているのがちょっと....。
『コンビニやバス停で 
人は状況について語り
本を読み 引用を繰り返し 
結論を壁に描く
未来を語る人もいる 
彼女は静かに喋り 
失敗みたいな成功はないし
失敗は成功でないことを知っている』

戦後の規格型の人間教育の成果がやっと実ったのかもしれない。
これが21世紀型の社会だとすれば、私たちの未来は決して明るくはない。

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